III号戦車の開発に際しては、当初、重量15t前後が設定されていた。これは、1930年代当時の輸送重量限界に鑑みて導き出された数値だった。しかし、さまざまな要求性能を反映した設計の結果、最終的には20tを超える中戦車として仕上がった。そこで次なる上限設定として、当時のドイツの橋梁の荷重限界を考慮した24t未満という数字が求められた。
ドイツにとって、これほど大きな(重い)車体規模の戦車の開発は初めてとなったため、特に車重を支えるのみならず機動性の良し悪しにも大きく影響する、足回りの設計に試行錯誤が生じた。
まずA型は、コイルスプリング使用の垂直式サスペンションを備え、片側の転輪が5輪だったが、続くB、C、D型では、それぞれの型で少しづつ構造が異なるリーフスプリング使用のサスペンションを備える8輪が試みられた。そして最終的にはE型以降、トーションバー使用サスペンションを備える6輪が標準となった。
備砲については、当時、世界水準では37~40(イギリスの2ポンド砲など)mmの対戦車砲が主流となっており、これで各国とも互いの戦車を撃破可能だった。つまりII号戦車の20mm機関砲よりも高威力なわけだ。そして各国とも、対戦車砲を戦車砲化するのが一般的だった。
しかしドイツ装甲部隊関係者は、昨今の急速な戦車技術の向上により、早晩37mm砲が陳腐化すると踏んでいた。
しかし、やがて短砲身42口径の50mm砲(5 cmKwK 38)が完成してG型中期型以降に搭載され、J型中期型以降は、より装甲貫徹力に優れた長砲身60口径の50mm砲(5 cmKwK 39)の搭載となった。そして、同型以前の一部の型も、オーバーホールや修理の際に5 cmKwK 39へと換装された。
ちなみに、この60口径5 cmKwK 39の搭載はヒトラー総統が強く望んだため優先的に実現されたという経緯がある。ことドイツの戦車開発にかんしては、素人ながら「下手の横好き」の戦車ヲタクともいえるヒトラーの直感が的を得ていることが間々あった。
■原点たりえた乗員配置また、III号戦車の乗員配置は、その後の世界中の戦車の乗員配置の原点となるものだった。
III号戦車の乗員は、車体前部の左側に操縦手、右側に通信手兼車体銃手、砲塔内の左側に砲手、右側に装填手、後部中央に車長の計5名が配されている。当時の多くの戦車は、乗員の一部または全員がひとり二役だったため、1両の乗員数は2~4名だったが、III号戦車ではひとり一役となった結果、運用効率の著しい向上が得られた。特に、戦況全般を見渡しながら自車を指揮する車長が独立したことの効果が大きかった。
それに加えて、各人がそれぞれの役割の専属となることで担当任務の習熟性が向上し、操作する機器の保守管理や整備に深く精通できるだけでなく、全車的な整備保守点検時に必要とされる「頭数・目数・手数・足数」や、野営時の交代制歩哨任務といった「ヒューマン・ファクター(主に人数が多いこと)の利点」も、5名という乗員数が良好な結果を生むことになった。
さて、かような次第だが、では、実戦におけるIII号戦車はどうだったのだろうか?