フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。
リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○商工省への要望書

1947年 (昭和22) 2月に入って電力が割り当て制になり、戦後の物資不足に加えて、電力不足が茂吉と信夫を襲った。写植機の製造を進める信夫の工場では、電力不足のため、ときには旋盤のベルトを工場員の小川が手でまわして機械を動かしたこともあった。[注1]

この状況に、印刷界は業界をあげて写真植字機を支援した。日本印刷学会で当時会長をつとめていた伊東亮次は、必要な諸資材の優先配給を陳情した「写真植字機の急速なる製造を要望す」と題した要望書を商工省あてに提出した。

要望書で伊東は、写真植字機の重要性の理解をうながすべく、その効用を技術的に解説し、末尾で必要性を強調した。写植機がどのようにとらえられていたかがわかる文面なので、以下に引用したい。

写真植字機の急速なる製造を要望す

一、石井式写真植字機

製造販売者 東京 石井写真植字機研究所
協力製造者 大阪 久金属製作所

文字印刷は一般に活字を組版せる活版から又は活字から複製せる鉛版或は電胎版等の凸版類から印刷するを普通とし、平版に属するオフセット凹版に属するグラビア等の印刷に於ては、活版から透明板に印刷せるもの或は活版印刷物を写真撮影せる原板より写真製版を行うのである。これらの方法は何れも活字を原盤とし、その操作工程も複雑かつ長時間を要し、生産物の品質も優良なるものを得ることが困難である等の欠点を藏 (筆者注:かく) する。活字は鉛を主成分としアンチモン、錫を配合せる活字地金より製造するものにして、これが組版の為には小形印刷機一台当り約一瓩 (筆者注:キログラム) の活字地金を必要とする為、一般印刷所に於て所要する地金量は莫大なるものであるのみならず、活字の製造設備及び工程には多額の経費と複雑な機械用具及び手数を要し、戦災印刷所の復興上多大の支障を来しつつある。

〈中略〉

以上述べたる処により現在に於て一般印刷業者の石井式写真植字機の要求は緊急痛切なるものがある。又この現実面を離れて論ずるもそれは右記第三に述べたる理由により (文化的、合理的な文字印刷を実現する意味において[注2] ) 本邦文字印刷文化の発展のためにも有用にして急速に普及を要する用具たるべきものにして、特に現下の印刷工場復興の時機に当りこの如き機械が多数設備せられて可及的にこの理想に近づく機会を得ることが最も望ましいと思考するものである。

本学会はこれらの理由により、石井式写真植字機の急速なる製造供給を要望するものである。

東京都京橋区銀座七丁目四番地
日本印刷学会
会長 伊東亮次
[注3]

こうした印刷界の応援に支えられ、きびしい状況のなかでも茂吉たちはなんとか準備を進めた。茂吉は1947年 (昭和22) 4月を皮切りに、毎月3台ずつ注文先に納入する計画を立てた。[注4]
○届かぬ機械

しかし1947年 (昭和22) 4月。大阪の信夫からの荷物は、一向に届かなかった。5月、6月……。荷物は届かない。夏になるころには、注文先から矢のような催促がくるようになった。

9月。約束の期限より5カ月遅れてようやく信夫から届いた3台の機械は、粗悪きわまるものだった。添えられていた手紙には、こう書かれていた。

「納期が遅れてしまい、申し訳ない。
このまま仮納入品として受け取ってほしい。あとからよい機械を送って交換するつもりだから、この機械は外に出さないように……」

信夫は注文先からの矢の催促にたまらず、だめを承知で送ってきたのだった。

茂吉は唖然とした。開発当初の試作品のほうがまだ出来がよかったとおもった。いや、つぎこそはちゃんとした機械が送られてくるだろう。……しかし、つぎもそのつぎも、茂吉の期待はかなわなかった。これなら、目の届く東京の下請け工場でつくらせたほうがましだった、と茂吉は悔やんだ。待ち望んでいる客のことをおもうと、気持ちは暗くなるばかりだった。

信夫から届く機械は、塗装されていないのはまだましで、鋳物にひびが入っていたり、運動歯車が噛み合っていなかったり、歯送りの爪が逆に取りつけてあったりした。写真植字機の使用目的や、要求される精度の高さをまるで知らない素人がつくった機械に感じられた。材料も仕上げ加工も、すべて満足のいかぬ仕上がりだった。[注5]

しかし信夫は決して、手を抜いたわけではなかった。
当時つくった写植機を、みずからもこう反省している。

〈この当時つくった写真植字機は、今でいうA型で、私としては精一杯やったつもりであるが、(中略) 材料不足の上に、期間的にもあまりゆっくりしておられず出来上がった植字機は実にお粗末なものだった〉[注6]

このままでは、とてもではないが注文先に出荷できない。茂吉は、大阪から届いた機械を全部解体し、手直しをすることに決めた。[注7]

(つづく)

※本連載は隔週更新となります。
 次は5月12日更新予定です。

[注1] 森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 pp.28-29、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.148

[注2] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.51 掲載の図版では〈中略〉となっているが、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.183-184に掲載された要約からこの部分を補った。

[注3] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.51

[注4] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.182-184、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.51

[注5] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.184-185、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.50-51

[注6] 森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.29、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.148

[注7] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.185、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.51

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
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