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 ラグビーW杯で一躍“時の人”となったのが、背番号「1」を付け、スクラムを支えた左プロップの稲垣啓太。ほとんど笑顔を見せないことから“笑わない男”との愛称を付けられ、目下バラエティ番組などに引っ張りだこだが、本業のラグビーでは笑えない過去を持っている。

 もともとは野球少年だっという稲垣は、中学3年生のときに兄の影響でラグビーを始めたが、その才能は傑出していた。高校時代は花園に2度出場して、U20日本代表候補にも選ばれ、進学先の関東学院大学でも活躍。パナソニックに入団すると、その年のトップリーグ新人賞に選ばれ、それ以来全シーズンでベスト15に選ばれており、2014年以降は日本代表にも定着している。そんな輝かしいラグビー人生における“唯一の汚点”が、大学4年生のときの不名誉な記録だ。ラグビーに詳しいフリーのスポーツライターがいう。

「ラグビーの日本代表は大半が大卒で、日本のラグビーは大学の強豪校がベースになっていますが、2000年代前半に大学ラグビー界を席巻したのが関東学院です。

2000年から2006年までの7年間でリーグ戦を6度制し、その間、大学日本一にも4度輝きましたが、2012年にリーグ戦で全敗し、入れ替え戦にも敗れて、31季ぶりに2部に降格しました。その時の主将が稲垣です。その年の関東学院はボロボロで、東海大には100点以上の差を付けられて敗北しました」(スポーツライター)

 記録をたどると、07年以降はリーグ戦優勝を逃しているものの、降格前年(11年)は5勝2敗でリーグ3位。大学選手権でも準決勝まで駒を進めており、伝統に恥じぬ結果を残している。そこからわずか1年でリーグ戦全敗+降格とは、いったい何が起きたのか。

「関東学院のラグビー部は07年、部員2人が大麻栽培で逮捕され、その後の供述で10人以上の部員が大麻を吸っていたことが発覚。

リーグ戦や大学選手権の出場を辞退する騒動がありました。これによって有選手が一気に関東学院を避けるようになり、“貯金”が完全に無くなったのが、稲垣が主将の年でした。

 ただ、1998年に集団レイプ事件を起こした帝京大学のラグビー部は、その後、部の在り方を根底から見直し、大学ナンバー1の強豪へとのし上がりました。それにひきかえ、関東学院はその後も立て直しができず、1部と2部を行ったり来たりする状況が続いていますから、低迷期の歴代主将がそうであるように、稲垣にも責任の一端はあると言わざるを得ないでしょう。“笑わない男”として有名になりましたが、降格が決まった際には人目もはばからず涙を流していましたし、そのあたりは本人も自覚しているはずです」(同上)

「笑わない」のではなく「笑えない」という表現の方が正しいかも。