ロンドンパラリンピック視覚障害者柔道73キロ級、3位決定戦でメダルを逃した高橋秀克(なかの接骨院)選手の顔は晴れやかだった。10歳の時に始めた柔道。
柔道一筋32年。25歳で緑内障にかかり、徐々に目が見えなくなっていった。

「視覚障害者柔道を始めてからのほうが、パラリンピック目標に真剣に柔道に取り組んできたような気がします。目が見えた頃は、二日酔いで昇段試験に行ったこともあった」と笑う。得意技は内股。障害者柔道では寝技の強い選手が多いことから、寝技を鍛え直した。
視覚障害者柔道の試合は、両者がお互いに組んでから始まるが、基本的なルールは健常者の柔道とあまり変わらない。ロンドンの会場でも満席の観客は繰り出される技に大いに盛り上がった。

2回戦、きれいに決まった得意の絞め技に「もう、年なもので、25秒抑えるのは体力を消耗する。省エネでいきました(笑)」。42歳、柔道選手団最年長、初めてのパラリンピック出場だ。北京パラリンピックでは惜しくも代表を逃し、今大会、7年越しの思いで畳の上に立った。
足りないところは重点的に鍛えた。仕事後には、150キロのプレスを上げて腕力を鍛え、週3~5回は道場に通い、懸垂台を買って筋トレトレーニングを毎日欠かさず行った。「ロンドンの舞台で戦うというモチベーションだけで7年続けてこられました」

見えない相手の動きを察知するには、どれほどの研ぎ澄まされた感覚や集中力がいるのだろう。試合観戦中、高橋選手の瞬時に技を出す姿が本当に格好よくて何度も息を飲んだ。「相手と組むとかすかな動きや息遣いなどで、相手の次の動きが予測できるんです。ただ、予測できる範囲は日本人の動きに限っていて、外国人は全く違う動きをするので自分の感覚がアテにならなくなることも。
そんなときは、平衡感覚でなんとかします」。2010年に中国で開催されたアジアパラ競技大会では金メダルを勝ち取った。外国人との感覚は、こうして国際大会などで鍛えてきた。

小学校の時に入門した道場「柔志会」。亡き館長の思いを継いで、子供たちに柔道を教えはじめて22年。途中、目が見えなくなってからも健常者の子供に指導を続けている。
「柔道以外、何もできないので、綺麗に投げる柔道の楽しさを教えたい。パラリンピック発祥の地、ロンドンの会場で今までにない大歓声を浴びた。メダルはなかったけど頑張って5位になったと報告します」と胸を張った。

「去年あたりから体力的な衰えとか、身にしみるようになった。細かい怪我が続く中、万全の体制で試合に望めない自分がはがゆい」。「若い人が育ち、試合に臨んでくれた方が、障害者柔道の発展になる」という気持ちと、「まだ若い人には負けたくない」という気持ちの間で揺れ動く。


4年後のリオを目指すのかという問いに、「まずは、妻に、この場所に立たせてれてありがとうと言いたい。文句一つ言わずに道場まで送り迎えを続けてくれた。すごく優しいので、『やりたい』と言えばやらせてくれると思うけど、今までみたいな負担はもうかけたくない」。感謝の気持ちがあふれた。

そんな高橋選手の夢。「いつかは自分の道場を持ちたい。
子供から大人、健常者や障害者が一緒に柔道ができる道場。学校でも安全に柔道ができるよう、きちんと指導者が育成されれば、柔道の競技人口が広がる。学校で柔道を続けている子で、途中、僕みたいに視力が悪くなっても、そのまま視覚障害柔道に移行できるようになれば」

それでも2年後、韓国で行われるアジア大会に向けて、また練習に励む。高橋選手の柔道人生はこれからも続いていく。
(山下敦子)