昨日、週刊少年マガジンでの初連載をスタートさせた『聲の形』の大今良時。受賞作が「問題作」として受け止められ、異例の雑誌に掲載されないキャリアスタートとなった彼女が商業誌デビューを果たしたのは、2009年のことだった。
連載デビュー作は、冲方丁の『マルドゥック・スクランブル』のマンガ化だった。

原作となった小説の『マルドゥック・スクランブル』は第24回日本SF大賞受賞作品でもあり、サイバーパンクの王道とも言える作品だ。ちなみにサイバーパンクとはSFの1ジャンルで、人体や意識を機械的もしくは生物的に拡張・改造し、社会ネットワークとつながり、巨大な組織・体制に立ち向かう……というような近未来的モチーフで描かれる。

自分自身の話をすると、僕はこの原作版を読みかけて途中で挫折したことがある。サイバーパンク小説は冒頭から前半で背景や状況、そして機能の説明が入る。例えば小説版『マルドゥック~』の冒頭なら次のような部分だ。


「ほどなくして少女の全身の皮膚感覚が鈍くなっていった。男の手の感触が遠のき、完全な虚脱には至らない程度に体から力が抜けてゆく。全身の関節は圧力を加えられれば動くが、元の位置に戻ろうとする意志を失っていた。柔らかな硬直とでも言うべき状態が訪れ、目に見えぬ薄い殻が少女を覆った。全ては殻の外側で起こることにすぎなくなった。」(『マルドゥック・スクランブル The 1st Compression──圧縮』完全版P24より)

叙情的に見えて、とても丁寧に状況が説明されている。映像化するならこれ以上ないくらいわかりやすいだろう。
しかし僕はここで引っかかってしまった。説明の丁寧さに加えて、この段階では正体のわからない「殻」の存在に引っかかってしまい、気づけば『マルドゥック~』は“積ん読タワー”入りしてしまっていた。

しかし今年の2月、『聲の形』のショートレビューを書いた直後、「大今良時」がクレジットされている唯一のコミックス『マルドゥック・スクランブル』を読んだ。受信メディアが変わったせいか、全7をあっという間に読了し、その後久しぶりにページを開いた原作もサクサク読み進めることができた。脳内に“コミックス補助線”が引かれ、瞬時に映像が浮かぶのだ。

この作品について言えば、原作とコミックスでディテールに多少の違いはあれど、ストーリーの大きな流れは同じだ。
ポイントは「作画」ではなく「漫画」担当の大今良時という作家の存在にある。

「あの作品は、冲方先生の情報量がすごく多くて、表現もさすがに的確です。ただし、マンガだからこそ伝わることもある。なので、ところどころで漫画版にしかないシーンを足したり、変更したりさせていただきました。そういったシーンを大きく変えたり、カットする場面は冲方先生に相談させていただきました。読み込んでいくうちに、私は主人公のバロットを幸せにするために描くんだという方向性が、自分のなかで明確になっていったのも面白かったですね」(大今氏)。


編集担当の小見山祐紀氏も「原作を変えることについて、冲方さんが何でも許可してくださった……というか、むしろ『変えてくれてありがとう』と大今先生に全幅の信頼を置いていただけたのが、本当にありがたかった」という。

さらに言えば、サイバーパンクはマンガにとても向いたジャンルだ。例えばサイバーパンク黎明期の1982年に大友克洋は『AKIRA』をスタートさせた。『マルドゥック~』にしても、コミックスのほかにアニメ映画化もされている。この世に存在しない背景や装置、仕組みを描くとき、ヴィジュアルの持つ力は大きい。

マルチコンテンツ化の最大のメリットは、作品の魅力を知るチャネルが増えることだ。
例えば、石田衣良の『池袋ウエストゲートパーク』シリーズなどは、まず小説で読み、ドラマでハマり、小説に戻るという読者も数多くいた。まっさらな状態で小説を読む楽しみに加えて、長瀬智也や窪塚洋介を脳内で当てはめながら読む楽しみが加わる。ひとつの作品にいくつもの楽しみ方が生まれるのだ。

乱暴な例え方をするならば、例えばイカ嫌いの小学生がNHKが仕掛けたダイオウイカブームでイカが大好物になったとする。それまでイカフライやイカ納豆、スルメなどいろいろ試したイカ料理がダメだったにも関わらず、だ。なんと素晴らしいことか。
受信するアンテナの周波数ではなく、受信メディアを変えることで、大きな位相の転換が起きる可能性がある。

読み手という立場でのわがままかもしれない。だがきっかけはなんでもいいはずだ。受信メディアを変えることで位相がマイナスからプラスへ転換されるなら、人生の楽しみは数倍、数十倍に膨張する。きっと世界の景色すら違って見えるはずだ。もうサイバーパンクはこわくない。ありがとう。『マルドゥック・スクランブル』(原作・冲方丁/漫画・大今良時)

(松浦達也)