〈村上春樹氏の著作本は長い間、中古でしか買ったことがなかった〉

『村上春樹への12のオマージュ いまのあなたへ』は、20代半ばから40代前半の若手作家12名による、村上春樹へのオマージュ小説12篇をまとめたアンソロジー。元は、NHKラジオテキスト『英語で読む村上春樹 世界のなかの日本文学』2013年4月号〜2014年3月号に掲載されていた。


各篇の前には作者による、「村上春樹、そして私」というコラムが置かれている。
村上春樹が『風の歌を聴け』でデビューしたのが1979年。その前後に生まれた若手作家たちは、村上春樹の小説を読み始めた時期も思い入れもそれぞれ違う。冒頭に挙げたような記憶しかない作家がいても、無理はないというものだ。

記憶の主は、第151回芥川賞の候補(受賞者は7月17日に決定)でもある、1985年生まれの羽田圭介。
彼によるオマージュ小説「みせない」は、年始を独りで過ごすカメラマン・マルヤマの生活の中に、村上春樹っぽい要素が見え隠れする。

たとえば村上春樹と同じく、ジョギングが習慣という主人公の設定。たとえば、マルヤマが偶然近所で見かけた、以前に撮影を担当した女性歌手。彼女の素顔と、大幅に修正の施された掲載写真の顔の違いからマルヤマの脳裏に浮かぶ、本当の自分って何?というテーマ。
青臭い自分探し小説なのかというと、そうではない。オリジナルであることがいいことなのか?アイドルをはじめ、何かのフォーマットに落とし込まれた個性のなさが今は求められているではないか?という身も蓋もない意見が、主人公を通じて物語の中で表明される。そのひねくれ具合にこそ、古本で安く買えるという理由もあって村上春樹の小説を読み、影響を受けざるを得なかったのかもしれないと考える作者の個性がある。


〈村上春樹の著作には、ぼくの時間が流れているような気がする〉

こう語るのは、こちらも芥川賞候補である、1971年生まれの戌井昭人。〈おセンチ〉な気持ちであった頃に読んでいたという作家の小説を、どう料理するのか?
〈わたしは酒場で、ワラビのおひたしとコシアブラの天婦羅をつまみに熱燗を飲んでいた。来月からは、岩牡蠣が出るぞ、とだれかが話しているのが聞こえた〉
海外の文学や音楽に大きな影響を受けている村上春樹の小説から、100万光年離れている純和風な言葉の数々に彩られた「流れ熊」。仕事を辞めて東北の港町に滞在する主人公の〈わたし〉は、川から流れついた野生の熊を見に舟で向かう。
熊と言えば、村上春樹の大ヒット作『ノルウェイの森』での主人公のキザな台詞〈春の熊くらい好きだよ〉が、思い出される。そんな〈おセンチ〉な世界の住民である動物が、哀愁と居酒屋感溢れる戌井昭人の世界へ迷い込んだら?という設定の物語は、村上作品ではありえない場面や固有名詞が出てくるたびに、世界観のギャップとバカバカしさが増幅される。
人間と熊とを隔てる川は、作者と村上春樹の関係性を象徴するけれど、今回その溝が深まったことは間違いない。

〈村上春樹の小説ではあんたくらいの年の子がほいほい男の子と関係を持つけどな〉

『風の歌を聴け』で主人公の〈僕〉が語る、クラス・メートと茂みで新聞を敷いて行為に及んだ初体験の記憶。そんなの変な虫に刺されたり、インクで汚れるに決まっている。〈ありえへんよな〉と思っていた高校生の頃を、母親の下世話な発言とセットで振り返る1980生まれの芥川賞作家・藤野可織。
「ファイナルガール」でオマージュするのは、ほいほい男の子と関係を持つ女の子、ではなく理不尽な暴力の恐ろしさだ。
かつて連続殺人犯から自分を守ってくれた母親と同じ、30歳くらいで死ぬと思い込んでいる平凡な少女・リサ。
彼女もまた連続殺人犯に襲われる運命にあるが、話は意外な展開をみせる。大学の寮やキャンプ地の丸太小屋など、リサのいるところに次々と現れる連続殺人犯。危機を迎えた平凡で無力なはずの少女は覚醒し、ド派手な格闘の末に次々と敵を打ち倒していくのだ。
暴力は主人公の問答無用のカッコよさによって、その意味を変える。忌むべきものではなく、アクションヒーロー・リサの活躍するシーンのために、読者にとって必要な存在へと変わっていく。

これを逸脱しすぎだなんて、物言いするのは野暮というもの。

村上春樹本人やマニアへ向けた、しおらしいお行儀のいい小説を書いたって仕方ない。
今の読者が楽しめる小説を書かずして、現代を代表する一人の作家をオマージュしたとはいえないのだから。
(藤井勉)