
元AKB48でタレントの大島麻衣さんが、タクシー運転手にタメ口で話をされて、Instagramに怒りの投稿をした件が、インターネット上で話題になっているようです。
タクシーの運転手がお客にタメ口で話してくるケースは男性(特に中高年の男性)ではめったに起こらないのに、女性(特に若い女性)では決して少なくないと言われており、被害者は大島さんだけではありません。
ところが、大島さんの件についてネットの反応を見るに、大島さんを擁護する人々でも「運転手個人が酷かった」という近視眼的な見方しかされておらず、「大島麻衣さんが女性差別の被害に遭った」と正しく事実を認識できている人はほとんどいませんでした。
メディアでも「女性差別」としっかりと指摘した記事は、私の見た限り存在せず、中には「女性が潜在的に抱えるストレス」のように謎の表現を使用しているメディアもあり、女性差別という概念をまるで理解していない日本人が多いことを窺い知ることができます。
「女性差別」という言葉が使われないことの違和感が分からないという人も多いと思うのですが、たとえば虐待やイジメの被害を伝えるニュースで、状況は明らかに被害者が虐待orイジメを受けたと分かるのに、「虐待」や「イジメ」という言葉が全く使用されていなかったら、気持ち悪くないでしょうか?
もしくは「子供が潜在的に抱えるストレス 」「学校で潜在的に抱えるストレス 」のような表現がされていたら、気持ち悪くないでしょうか? 「いやいや、それ虐待orイジメでしょ」とツッコミたくなる人も多いと思うのですが、それが女性差別の問題では平然と起こっているほど、多くの人が「女性差別」という言葉を使えていないのです。
差別というシステム上の欠陥に気付いた人たち
その一方で、まだ少数派ではあるものの、「それは女性差別だ」と理解できるようになった人も、着実に増えていると思います。私が主宰する市民団体パリテコミュニティーズでは「#女性差別大賞2018」を実施し、朝日新聞(3月9日朝刊)の記事でも取り上げていただきましたが、とりわけ広告や組織の構造について、女性差別であることを正しく認識できる人が増えたからこそ、女性差別関連の炎上が増えているのだと思います。
「虐待」や「イジメ」や「ハラスメント」や「DV」のような言葉が広まったことで、これまでは個人の被害の問題とされていたことが、社会に存在する典型的な被害の問題として認識されるようになりましたが、「女性差別」もインターネット社会が到来してようやくそのファーストステップを歩み出したのかもしれません。そして2019年は、さらに多くの女性差別問題が浮上することでしょう。
実際、2019年が始まってまだ2ヶ月半しか経っていないのにもかかわらず、AKS、福岡地裁久留米支部、西武・そごう、ロフト、ピーチ・ジョン、カンコー学生服、熊本国際スポーツ大会推進事務局、トヨタ自動車、自衛隊滋賀地方協力本部、等身大おしり展示、「ヤレる女子大学生ランキング」、「肉布団」、「今田×東野のカリギュラ」、「パパのためのママ語翻訳コースター」等、数え切れないほどの女性差別の炎上が起こっています。
女性差別に対する幼稚なバックラッシュの声
それに対して、昨今は「何でもかんでも女性差別になるのはおかしい!」「女性差別ではないと思う!」というバックラッシュ的な声も相次いでいるように思います。ですが、彼ら彼女らの声を拾ってみると、「それで得をしている女性だってたくさんいるのだから女性差別ではない!」「私は女性差別に“感じなかった”から女性差別ではない!」という論拠が非常に多く見られました。
実際、気になってTwitterで「女性差別ではない」というリプライを飛ばして来た女性に聞いたところ、女性差別は「女性であることで自分の価値をマイナスにされること」と答えてくださいました。確かにそのような意味で利用している人も散見され、どうやら彼ら彼女らは、女性差別のことをハラスメントか何か別のものと混同していることが分かります。
ですが、国連の「女子差別撤廃条約」では、第一条で、「女子に対する差別」とは,性に基づく区別,排除又は制限であつて,政治的,経済的,社会的,文化的,市民的その他のいかなる分野においても,女子が男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し,享有し又は行使することを害し又は無効にする効果又は目的を有するものをいうと規定されています。
言わずもがな、女性差別か否かは、女性個人がどう思うかは関係ありません。このように、差別という概念を完全にはき違えている人が多く、それゆえ昨今の女性差別問題に関して、話が噛み合わない不毛な論争が生じるという状況が生まれるのだと思います。
#KuTooをヒール禁止と受け取る認知の歪み
「女性差別ではない」という謎の反対意見に晒されているムーブメントの一つに、昨今インターネット上で話題の「#KuToo」があります。これは、女性にだけヒールやパンプス等、足を痛めかねない靴が就業規則等により強制されることに対して、「おかしい」「男性が履いているような平坦な靴が履ける選択肢を女性にも」と声を上げる運動であり、グラビアアイドルでライターの石川優実さんが主導しています。
これに対して、AbemaTIMESの記事では、街の声で「ヒールじゃなかったらイヤ。見た目的にキレイ感がない」と答える女性のコメントが記載されていました。コメンテーターとして出演した鈴木涼美氏も、「女性がキレイでいることは(中略)、女性自身の普遍的な欲望でもある」と答えていますが、そう思う人は引き続き履いていれば良いだけで、#KuTooは彼女等からヒールを奪う運動ではありません。
この記事の中にも「ヒール容認派」という謎のワードが登場していますが、論点は「ヒール強制容認派VSヒール強制反対派」であり、完全に誤報です。また、漫画家の小池一夫氏は自身のTwitterで、「ぺったんこ靴だろーが、ハイヒールだろうが、好きな靴履けばいい」と、#KuTooと全く同じ主張をしているのに、それを「#kuTooの反撃」と表現しており、まさに#KuTooをヒール禁止派と誤解していることを露呈してしまっていました。
仮に#KuToo のムーブメントに反対したいのなら、(1)嫌がる人も含めて全女性にヒールを強制しなければならない正当な理由、(2)男性はヒールを免除されるのに女性は強制されるという性差別を許す正当な理由等を論理的に述べなければならないはずなのに、私の知る限り見たことありません。ヒール容認派とされた人々は、みんな脳内のヒール禁止派という妄想と勝手に戦っているわけです。議論の土俵にすら上がれていないので、話が噛み合うはずがありません。
なぜ、「選択しない」と「否定」の区別がつかないのか
#KuToo に限らず、制服スカートやメイクの強制問題にしても、選択的夫婦別姓問題にしても、主張はあくまで「強制やめよう」「選択させて」という内容に過ぎないのに、なぜ彼ら彼女らはそれらを禁止する主張と誤読・誤解してしまうのでしょうか?
また、「自分は大丈夫だから差別じゃない!」と説く人もたくさんいますが、差別か否かの話の時に「N=1」の感想文を語っても全く反論になっていないことが、何故分からないのでしょうか?
そして中には禁止論ではないことを説明しても、「あ、禁止論ではなく強制反対論なのか。だったら賛成!」と素直に認めず、「うーん、でもねぇ…」と、どこか歯がゆい表情を浮かべることがしばしば起こるのですが、それは何故でしょうか? なぜ他人に強制して相手の自己決定を奪うことに無頓着でいられるのでしょうか?
もしかすると、「選択しないこと」と「否定すること」の区別がついていないために、選択しないと宣言することが、自分が好きなものをまるで否定されたように感じてしまうのかもしれません。
その背景には、自他境界がハッキリ確立できていない「ムラ社会」的思考や強い同調圧力が日本の社会に今も根強く残っているため、「あなたの好きなものとは別のものを選択したい」と言われることに、強い不安を覚えるのではないかと思うのです。
先ほど「女性差別ではない」と主張する人たちはハラスメントか何かと混同しているのではないかと指摘しましたが、自分が不快ではないのなら「あなたは不快に感じるのね」で済ませて良いはずです。それにもかかわらず、わざわざ「私は不快ではない!」と言って他者の感情を否定しにかかるのも、そこに「ムラ社会」的思考や強い同調圧力があり、不安を感じているからでしょう。
なお、以前の記事「クソリプ学入門 〜ネットにたくさんいる『悪意メガネ』をかけた人たち〜」で詳しく言及しましたが、このような一種のフェミニズムムーブメントに対して潜在的な悪意を抱いているからこそ、事実を正しく認知できず、勝手に禁止論だと誤認したという側面もあると思われます。
「男はつらいよ」の90%は自分のせい
さらに、「女性差別だ」という声に対して、「でも、男性だって…」という論調で反論をする男性もいます。これも、相手の感情を認めず否定しにかかる言説であり、コミュニケーション能力ゼロですが、そもそも男性が「男としての生きづらさ」を感じるのは、女性を支配・搾取・差別しているからという側面も非常に大きいと思います。
男としての生きづらさで最も典型的な例が、「自分は大黒柱だからどんなに辛くても仕事を辞められない。女性はいざとなったら辞められて羨ましい」という悩みだと思いますが、夫婦がお互い経済的にも精神的にも自立していれば、男性でも女性でも辛い時は転職や休職等で一時的に仕事も辞められるはずです。
ところが、多くの日本人男性が、そのような対等なパートナーシップを志向せず、家事育児の大半を女性に押し付けて、経済的にも社会的にも性的にも女性の自立を妨げるような家父長的パートナーシップを何の疑いもなくなぞってしまっています。「僕は父親に比べて亭主関白ではないぞ!」と思うかもしれませんが、ジェンダー平等先進国の男性と比べると昭和の男も今の日本人男性も五十歩百歩です。
たとえば、女性が生涯正社員で働き続ければ、パート社員として働くよりも世帯年収が1億~2億円も増えるのに、妻が働き続けることに対して全力でサポートすることはしません。家事育児の時間は世界最低レベル。女性は“仕事と家庭の両立”を考えて仕事を選ぶ人も多いのに男性は少ない。
つまり、自分が妻を支配しているから自由がきかなくなり、カイシャに支配されるわけです。妻と子を江戸に預けて参勤交代させていた江戸幕府の大名支配と似たような被支配構造を作り出しているのは、男性自身であるケースが少なくないのです。このように、男としての生きづらさの9割は自分のせいで生じた問題だと思うのです。
なぜ彼の目には男性をATM視する女性ばかり映るのか
また、この女性支配とは決して経済的支配の問題だけではありません。たとえば、「女は男をATMに見ている!」と女性蔑視を曝け出す人もいますが、単に自分が支配的関係を約束しなければ、そのような経済的依存傾向のある女性は寄って来なくなり、勝手に依存先を求めて去って行きます。そうして周りには価値観の近しい自立傾向の強い女性が増えるはずです。
それなのに依存傾向に強い女性ばかり目につくということは、実は自身の女性支配傾向が強く、男性をATM視しない自立傾向の強い女性に避けられているからではないでしょうか? ここで言う女性支配とは経済的支配ではなく、社会的支配や文化的支配や性的支配という、あらゆる男尊女卑や家父長制思考や女性性消費文化を含みます。
具体的には女性を癒しやトロフィーのように捉えていたり、双方向ではない一方的な性欲を有していたり、男性には甘いのに女性に対しては「こうあるべき」という偏見の押付けが激しかったり、そのような要素が言葉の随所に滲み出ていれば、自立傾向の強い女性から避けられて当然です。
「経済的支配・依存関係は嫌だけれど、社会的に・文化的に・性的に女性を支配できる都合の良い男尊女卑の関係は欲しい」というのは実に理不尽であり、そのような捻じ曲がった願望は叶うはずがありません。人を支配する経済力も無いのに、いっちょまえに支配欲求だけ大きくこじらせてしまった男の悲しき末路と言えるでしょう。
「ホモソーシャルツリー」に搾取される男たち
私はそのような男性中心社会・権威主義・家父長制の下で、男性が満たされない支配欲をこじらせて行く構造を「ホモソーシャルツリー」と呼んでいます。人としての自己効力感が低く、自分の脚で立てない弱き男性たちが、そのツリーにすがりつきます。でもツリーの上から女性を見下せる男尊女卑の優越感や、女性支配による精神的充足感(とりわけ女性性の性的消費をすることで得られる支配欲の充足)を捨てられないため、彼らはツリーから降りることはできない。そうして結局ツリーに居座り続ける選択を自らしてしまうことで、ツリーに延々と搾取され続ける奴隷となっているわけです。

男性の本当の敵はツリーという自分を搾取している構造体であり、それが「男としての生きづらさ」を恒常的に発生させているのに、そうやってツリーと「共依存関係」に陥ってしまっているため、どうやら抜け出すのは容易ではないようです。男性中心社会・権威主義・家父長制という“心の支え”が無くなると自分の脚で立てなくなるほど、実はか弱い存在だから、ジェンダー平等やフェミニズムを過剰に畏怖するのだと思います。
酷い場合は、女性を敵と見なしてフェミニズム叩きに走る人もいますが、自立傾向の強い女性たちとの縁(パートナーシップに限らない)を切ってジェンダー平等な環境を遠ざければ遠ざけるほど、当然ますますツリーから遠ざかる機会を失い、ますます自分の首を絞めていることに繋がっており、実に滑稽と言えるでしょう。
女性を支配する男性ほど支配しやすい
一方、男性労働者を搾取したい支配階層からすれば、ツリーにすがりつく一般男性は本当に便利な歯車です。女性を支配する権利や女性性消費をする自由さえ付与すれば、支配階層には一切歯向かわず、安価な労働力を提供し、ブラック労働に耐え、同調圧力に屈し、人権までも手放し、搾取され続けてくれるのですから。
もちろん、それをしっかりと意図して行っている支配階層は少ないと思いますが、かつての江戸幕府による大名支配のように、男性中心社会や家父長制社会の仕組みを強化したほうが人々を支配するのに都合が良い仕組みであることは、帝王学として肌感覚で理解している人も少なくないはずです。だから地球上の様々な文明で、女尊男卑やジェンダー平等ではなく男尊女卑が採択されて定着したのだと思います。
ですがそれは過去の話。以前の記事「『自己肯定感』格差社会…ネットが社会の前進と劣化を同時に進めている」では、自己肯定感格差社会が到来していると書きましたが、(1)「ホモソーシャルツリー」という構造から決別して積極的に自らジェンダー平等を目指すのか、(2)はたまた現状のまま女性支配の快楽と共に搾取される生きづらさで苦しみ続けるのか、その選択が迫れられているのが現代の男性なのではないでしょうか。
最後の最後に
さて、スマダンの連載「勝部元気のウェブ時評」も、2016年11月に連載開始してからおよそ2年4ヶ月に渡って毎週記事を配信させていただきましたが、残念ながら今回の記事を持って最後となりました。今までたくさんの方々に読んでいただきまして、本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。
連載を開始した2016年当初に比べると、これまで私が書いてきたことの理解が進み、様々な社会的理不尽に対して声を上げるキープレーヤーも増えて、少しずつ社会が変わっている印象を受けます。この連載で書いてきたことが「当たり前でしょ」という人や、これからの時代にスマートに生きようとする男性にとって「この連載はとても良い教科書になった!」と思って下さる方が、これからもどんどん増えて行くことは間違いありません。
たとえば、以前多くの共感をいただいた記事「妻に子育てを休ませてあげる夫は、本当に「素敵な旦那様」ですか?」をきっかけに取材いただいた朝日新聞(3月2日朝刊)の記事も、先述の #女性差別大賞2018の記事も、どちらも担当の記者は男性の方でした。この連載で扱って来た日本文化の様々な悪しき側面に関しても、ジェンダーの問題に関しても、労働の問題に関しても、少しずつですが時代は着実に変わっています。
実は2015年頃に、とある出版社の男性編集者から、「(『恋愛氷河期』の)次は男性向けの書籍を書いてみませんか」と言われたことがあるのですが、営業サイドから「男性向けはカネやセックス等の餌が無いと売れないよ」と言われ、企画が無くなってしまったことがありました。その後、約1年後にスマダンの連載が始まったのですが、黎明期に僅かなニーズを見出し、育ててもらった編集者にも大変感謝したいです。
ですが、その一方で、社会に存在する問題はまだまだ多く、さらに問題が複雑化する中で、人々の抱える様々な認知の歪みや、社会のシステム的欠陥を言語化することを得意とする私の役目はまだ終わっていないと思うので、これからもどこか別の場所で引き続き頑張って行きたいと考えている所存です。
それでは、またどこかでお会いできるのを楽しみにしております。本当に今までありがとうございました。
(勝部元気)