1960年代後半に一世を風靡したグループサウンズ(GS)。わずか5年ほどの短いブームだったが、日本のポップス史を語るには欠かせない存在でもある。


【写真】近田春夫の撮り下ろしカット【2点】

1951年生まれのミュージシャンの近田春夫が自身の記憶とともにGSを論じた「グループサウンズ」(文春新書)を2月17日に刊行した。若き日に当時のブームを体感した近田による、経験者ならではのGS論や昭和の音楽文化、そして古稀を過ぎた近田が今GSを語る意味とは。半世紀前を知る業界人からのリアルな証言を聞いた。(前後編の後編)【前編は下の関連記事からご覧ください。

――近田さんはGSブームの1960年代後半は、ちょうど中高時代を過ごしていました。どんな高校生活だったんでしょうか?

僕はまだ子どもだったから、基本はテレビ、ラジオで、ジャズ喫茶もしょっちゅう入り浸りというわけではありません。生演奏は、番組の公開録音などに応募して聞いていた記憶があります。そしてやっぱりザ・アニマルズが好きで、彼らがアメリカのフォークソングの『朝日の当たる家』をカバーした時のキーボードにも興味があったから、子どもの頃はピアノに触れていたけど高校時代にはキーボードも弾くようになっていました。

――キーボードが縁になって、GSのバックで演奏したこともあるそうですね。

僕は1970(昭和45)年に今はない有楽町の日劇で開催していた日劇ロックカーニバルというイベントで、ミュージシャンのカルメン・マキさんと『カルメン・マキ&タイムマシーン』というバンドで演奏したことがあった。その後、ザ・ワイルド・ワンズのマネージャーをしていたナベプロの大里洋吉さんに、キーボードを弾ける奴がほしいと誘われて、ワイルド・ワンズのバックで弾くことになったんです。

1971(昭和46)年の頃だけどもうGS全盛期はとうに過ぎていて、ワイルド・ワンズもGSからジャクソン5のようなコーラスグループへの転換を図っていた時期だった。
大里さんは後にアミューズを創業する人ですね。僕の最初期の演奏家としてのキャリアになった。

――近田さんはずっと横浜に住んでいたんですよね。横浜には本牧出身のGSバンド『ザ・ゴールデン・カップス』がありました。

そう。彼らは本牧の『ゴールデン・カップ』というライブハウスを拠点にしていたけど、彼らは皆僕より少し世代が上だし、本牧のあたりにはまだ米軍住宅もあって猥雑な雰囲気があったから、高校生の僕には敷居が高かった。でもそんな彼らもメジャーになったらテレビに出ていたりしたから、横浜のバンドだからといってもローカルであることにこだわったりはしていませんでした。そういうサバサバしているところも横浜の土地柄らしいね。――GSのブームは1960年代後半、わずか5年と短かったですが、今GSを語ろうとしようとした動機は何でしょうか?

まず、今までGSを語っていた人たちって、僕らよりちょっと若くて必ずしもリアルタイムで曲を聴いて、ブームを経験した人たちではないんです。後から当時の音源や写真で想像していくうちに、知らず知らずに理想を投影してしまうんだね。しかもサブカル的というか、あえてマニアックなバンドや曲を論じたがる傾向にあった。

――当時を知っている近田さんにとっては、そのあたりに違和感を覚えたということでしょうか。


そう。その頃、サブカルという概念もなかったし、毎日テレビでGSのバンドが出ていましたから。特に僕が高校に上がったGS中期以降は洋楽リスナーよりもミーハーな女の子たちをファンに想定していて、アイドル性を持たせたり、失神のような演出を使い始めたりで延命を図っているような状況でした。それも戦略的なものではなく思い付きを試していた印象があったし、反体制的なカウンターカルチャーなどでは全然なかったですね。年月が過ぎて歴史になっていくうちに、理想化されたファンタジーとしてのGS像が生まれてしまったともいえます。

――GSの影響で若者に長髪が流行ったりして、60年代のカウンターカルチャーに例えられたりもしましたが、全然そんなことはなかったと。

ただ格好いいから、ってだけでバンドを組んだり音楽を聴いたりしていた時代でした。それが後年、蘊蓄好きな人たちに好かれたことで、色がついて語られるようになったんでしょうね。マニアックなものを熱く語るのは僕も好きなんだけど、1・2曲しかリリースしていないようなマイナーなバンドたちがGS の本質かというと違いますよね。

下手に文化論じみたり、斜に構えたりせずにヒット曲とグループを正面から堂々と論じたものってなかったから、僕も72歳になったし今この時期に書いておかないとと考えていました。――そして、当時のバンドメンバー(瞳みのる/エディ藩)や作曲家(鈴木邦彦)との対談もできて、経験者ならではのGS論となったわけですね。

当時を知っている評論家の方々って僕より年上で、ジャズなどの洋楽には詳しいんですが国内のGSには洋楽ほど関心がなかった。
また、邦楽の音楽評論って歌詞の方に考察が集中しがちで、音楽性を論じたものも意外と少ないんです。僕より年下の世代だとGSをリアルタイムで聴いていない…ということで、GSをサウンドから分析したものは僕にしかできないかなと(笑)。記憶も薄れていくし、当時の関係者に話を聞けるのも今が最後のタイミングかなと思いますし。僕の備忘録でもありつつ、後世でも参考にしてもらえるものになるよう語らせてもらったし、証言も集めることができました。

やっぱり僕の音楽家としてのキャリアの初手に大きな影響を与えたのがエレキであり、GSなんです。中学・高校の色気づいてくる時期に入ってきたエレキのサウンドは鮮烈で官能的だった。

――半世紀が過ぎて、近田さんにとってGSとはどんな存在といえるでしょうか?

今でも一言で言いきれる結論は見つかっていないんだけど…後にも先にもあれほど熱中した音楽はなかったですね。でももっとロックに近いものを期待していたらどのグループもどんどん日本的なしっとりした曲ばかり出すようになっていって…だから落胆もさせられたけど、その楽曲たちもまた魅力的という、アンビバレントな感情を抱いています。

GSが終わってから僕は音楽を作り始めたけど、やっぱり西洋で生まれたロックを志向しても日本人だから、生まれる曲によそ行きというか、土着のものでない人工的で無機質な要素が拭えなかったんです。それはあの時代のバンドマンも同様に感じていたかもしれない。

――最後に、近田さんにとってベストなGS の曲を挙げるとすると、何になりますか?

一つ絞るなら…ザ・モップスの『朝まで待てない』(1967)かな。阿久悠さんの歌詞のストーリーが当時としては斬新だし、作曲の村井邦彦さんのサウンドも洋楽のサイケデリックを見事にアレンジしています。
従来型の歌謡曲を作ろうとしていなくて、でもまるまる洋楽のコピーでもない。僕がほれ込んだGSのスピリットを凝縮したような一曲です。 ▽近田春夫(ちかだ はるお)1951年東京都生れ。音楽家、音楽評論家。ロック・ヒップホップ・トランスなど、時代の最先端のジャンルで創作を続ける。またタレント、ラジオDJとしても活躍中。著書に『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』『グループサウンズ』など。
編集部おすすめ