昨今のオタクカルチャーにとって、「聖地巡礼」といえば、お気に入りの作品の舞台となった現実の街や建物を訪れること。主にアニメや漫画のファンが中心の活動のように思えるかもしれませんが、ゲームという側面からこの「聖地」に目を向けてみると意外な発見があるかもしれません。


今回はそんなゲームの聖地から、世界中を熱狂させ続けるあの「赤い帽子の配管工」や「緑衣の勇者」のルーツとなった土地をご紹介します。

■世界的ゲーム体験の根源となった町
今や世界中の誰もが知る名作ゲームである『スーパーマリオブラザーズ』や『ゼルダの伝説』。これらの生みの親であり、現在任天堂の代表取締役フェローを務める宮本茂氏の故郷は、京都府中部に位置する南丹市園部町に存在します。

今年1月、南丹市で開催された市制施行20周年式典において、同市の名誉市民である宮本氏が登壇し、自らの生い立ちからゲーム作りの哲学に至るまでを語る機会がありました。その言葉の端々からは、世界中のプレイヤーを虜にするゲームメカニクスの原点が、少年時代に駆け回った園部町の野山や川、そして彼を包み込んだ温かいコミュニティにあったことが鮮明に浮かび上がってくるものでした。

この南丹市園部町という土地は、いかにして「遊びの神様」を育んだのか。その秘密を知れば、次にコントローラーを握ったとき、マリオのジャンプやリンクの謎解きの奥に、泥だらけになって遊ぶ一人の少年の姿が見えてくるかもしれません。

■野生のプレイグラウンド~マリオのジャンプを生んだ「体感」~
宮本氏は園部町で、豊かな自然に囲まれ、のびのびとした少年時代を過ごしました。曰く、「受験地獄のない、京都の恵まれた教育環境だった」と振り返るその日々は、まさしく遊びと探求の連続だったと言います。学校にはよく寝坊して遅刻してしまうほどだったにもかかわらず、休みの日には朝5時に起きて家を飛び出していたり、園部城の裏にあるお堀では古い折箱をめくってミミズを捕まえたり。それを餌にフナ釣りを楽しみ、近くの川では地元のお年寄りたちから教わりながらモロコ釣りに没頭します。さらに、園部大橋の下の堰では、浅瀬を遡上してくる魚の通り道を読み、素手で掴み捕る……という、なんともワイルドな遊びに熱中していたそうです。


そして宮本少年の好奇心は水辺にとどまりません。園部城跡のある「こむぎ山」の赤土の斜面では、ズボンを泥だらけにしながら滑り降りる遊びを繰り返し、秋になり収穫が終わった田んぼは、当時の子供たちにとって格好の野球場へと変貌しました。積まれた藁に埋もれて太陽の暖かさを感じるひとときは、何にも代えがたい至福の時間だったのだそうです。

これらの泥臭く、自然と一体になった遊びの数々は、ただの懐かしい思い出として紹介されたものではありません。宮本氏がこれまで手掛けてきたゲームの根幹である「手応え」へと直結している、とされているのです。

あなたは『スーパーマリオブラザーズ』を初めてプレイしたときの、あの直感的な操作感を覚えているでしょうか。ボタンを押すという指先の小さな動きが、画面の中のマリオの躍動感へとシームレスに変換されていたことを思い出せるはずです。宮本氏は、自身の体で覚えた「重力」や「摩擦」「反発」といった物理的な感覚を、デジタルの世界に落とし込むことに心血を注いできました。

「ボタンを強く押したら、キャラクターも強く動くように感じられないか?」「長く押したらどうか?」「十字キーを下に入れながらジャンプボタンを押したら、ぐっと力を溜めて高く飛べるのではないか?」……などなど。

こうしたプレイヤーの身体感覚とインターフェースの一致こそが、マリオのジャンプが気持ちいい最大の理由です。田んぼを走り回り、こむぎ山を滑り降り、川の石の下に潜む魚のヌメリを素手で感じ取った少年の「体感」が、ファミコンのコントローラーを通じて世界中のプレイヤーの手に伝播したのです。

宮本氏は、何より「試行錯誤が面白い」と語っています。
ブロックを叩いたらコインが出たり、何もない空中でジャンプしたら隠しブロックが見つかった。こうした「自分が考えて試した結果に対する驚きと手応え」は、ミミズを探し、魚の居場所を予測したあの日の自然の中での遊びの構造と全く同じなのです。

■探検隊とDIY精神~ハイラルの大地を形作った冒険心~
外遊びのスケールが大きくなるにつれ、宮本少年の想像力もまた大きく膨らんでいきました。小学生の頃、宮本氏は友人たちと数人で「探検隊」を結成し、学校やこむぎ山の周辺を探索して回ったといいます。さらに彼は、ただ探検するだけでなく、そのための「道具」から自作していたのです。

探検手帳が欲しいとなれば全員分の手帳を手作りし、暗闇を進むために頭に巻き付けるヘッドライト(懐中電灯)まで工作。両親それぞれの祖母の家には一通りの大工道具が揃っていたため、「おもちゃは自分で作るもの」というDIY精神がごく自然に身についていたのだそうです。

さらに、ボーイスカウトでの活動も宮本氏の世界観を大きく広げました。1ヶ月以上もキャンプ生活を送り、地図を頼りに大河内の山中を歩き回る経験は、未知の領域を切り拓くサバイバルスキルと空間把握能力を養ったのです。この「探検隊」や「ボーイスカウト」での体験が、のちに世界的人気を博することになる大ヒット作品『ゼルダの伝説』へと結実していくことになるとは、当時の宮本少年には思いもよらないことだったかもしれません。

任天堂への入社後、初期のパソコンゲームにあったロールプレイングゲームに触れた際に、プレイヤー同士が「俺のレベルは50だ」、「あの謎はどう解くんだ」と自慢し合い、情報交換をしている姿に面白さを見出した宮本氏は、「ゲームの中で自分が主人公(ヒーロー)になっていく感覚」を、テレビ画面の上に構築しようと考えました。

初代『ゼルダの伝説』から最新作の『ブレス オブ ザ ワイルド』や『ティアーズ オブ ザ キングダム』に至るまで、ゼルダシリーズでのプレイヤーは常に「未知の環境へのアプローチ」を求められます。
洞窟に入れば画面が暗くなり、BGMが寂しげなものに変化。すると、プレイヤーの体は無意識に「冷たさ」や「恐怖」を感じ取ります。真っ白な画面に雪だるまが現れれば「ここは寒い場所だ」と認識し、氷の世界であれば「床が滑る」ギミックが面白いのではないかと思いつく。簡単な絵と音の組み合わせだけで、プレイヤーの頭の中に壮大な世界を蘇らせます。これは、手作りの懐中電灯を頼りに薄暗い山中を進み、五感を研ぎ澄ませて自然の変化を感じ取った宮本少年の「探検の記憶」の再現であったのです。

宮本氏曰く、ハイラル王国という謎と冒険に満ちた魅力あふれる大地は、園部町の野山を駆け巡った少年探検隊の眼に映っていた、あの広大でワクワクする「世界」そのものだったのです。

■変わり者を伸ばす環境と「ローカル=グローバル」の哲学
宮本氏のクリエイティビティを育んだのは、自然環境だけではありません。彼の周囲にいた「大人たち」の存在もまた、才能を独自の方向へ開花させる大きな要因となりました。

中学生になり、漫画を描きたいと思った宮本氏ですが、学校には漫画クラブが存在しませんでした。そこで彼は、美術の先生に直談判し「美術部よりうまい漫画クラブ」というキャッチフレーズのもと勢いでクラブを設立。文化祭でストーリー漫画を発表するなど精力的に活動していたそうです。ある時、美術の授業で描いた絵に対して、先生から「お前、この程度か。
今回は手を抜いているな」と厳しい言葉を投げかけられたこともあるとか。その悔しさに奮起し、何度も描き直した経験は今も心に残っているそうです。

また、小学生時代の書道教室では、当時の恩師が普通の文字ではなく「象形文字」や風変わりな書体をお手本として書いてくれました。さらに、工業デザインの道へ進むと決意した高校時代には、「高校2年から専門の学校を目指すのは無理だ」と反対する声がある中で、「頑張ってみたら」と応援して背中を押してくれる先生や同級生もいました。このように「ちょっと変わった子」「ユニークな興味を持つ子」を型にはめず、むしろその個性を面白がり、伸ばそうとしてくれたコミュニティの寛容さが、彼の中に「自分の感覚を信じる」という強靭な軸を作り上げたのです。

そして、のちにクリエイターとして活躍し始めた30代の頃、宮本氏は「モノを作るなら東京に行かなければダメなのではないか」と、ローカル(京都)にいることへの焦りを感じていた時期があったといいます。しかし、コピーライターの糸井重里氏との出会いは、その考えを根本から覆しました。糸井氏らとの交流を通じて、自分のペースでのびのびとモノを作ることの価値を再確認した、というのです。

クリエイティブの姿勢として、「今、日本で流行っているものに便乗して作る」という手法を宮本氏は極力避けてきました。なぜなら、日本の特定の流行を前提とした作品は、世界という市場に持って行った時に通用しづらいからです。彼が選んだのは、「自分たちが面白いと信じるものを、自分たちの場所でじっくりと育て続ける」という道でした。

中心を東京とするか、京都をローカルと呼ぶか。
しかし世界から見れば、どちらも等しくローカルに過ぎません。「極論を言えば、究極のローカルとは個人です。一個人が徹底的にこだわり抜いて作ったものこそが、人間の普遍的な感覚に触れ、結果的にグローバル(世界中)に通じていく」。これこそが、宮本氏の行き着いた哲学でした。

園部町での原体験という「極めて個人的でローカルな記憶」が、世界中の人々の心を揺さぶる共通言語となった理由は、まさにこのスタンスによって成り立つものだったのです。

■「悪くない」を捨て、「世界初」を創る独創の流儀
任天堂のモノづくりを貫くキーワード、それは「独創」という言葉に集約されているのではないでしょうか。日用品と違い、娯楽品は「誰もが欲しい」と思う魅力がなければ一つも売れない厳しい世界です。

この世界で生き残るため、宮本氏は「8対2の法則(パレートの法則)」に着目しています。この法則は、世の中の全商品のうちわずか2割の「独自性の強いもの(独占できるもの)」が、全体の売上の8割を稼ぎ出すというビジネス界の至言です。しかしこれは、裏を返せば「ユニークなヒット商品さえ生み出せば会社は存続できる」ということ。だからこそ、宮本氏のクリエイティブは、とことん「誰も見たことのない2割」を目指すのです。

任天堂の元社長である山内溥氏は「世界初」という言葉をこよなく愛したといいます。
「他で見たことのないものを作れ。そうすれば、向こうから買いに来る。営業は無理に売るな」というトップの強烈な方針は、開発現場に「似たようなものを作ってはいけない」というポジティブなプレッシャーを与えました。宮本氏は「営業に対して次は何を作ればいいか、とは絶対に聞かない」と断言します。営業は今の市場で売れているものを求めますが、クリエイターの仕事は「今、世の中にないものを作ること」だからです。世の中に生み出されるモノの8割は「悪くはない」レベルに収まります。企画書を見せると「うん、悪くないですね」と言われる。しかし、宮本氏に言わせれば「そんな妥協の産物を作って何が楽しいのか」、と。「悪くない」ではなく「何これ!? 見たことがない!」と言われるようなものを作らなければ、大化けすることはないし、歴史にも残らない、というのです。

他社のゲーム機がひたすら最高性能と高画質を追い求める「レッドオーシャン」の競争に向かう中、任天堂は2画面のタッチペン操作(ニンテンドーDS)や、体を動かすコントローラー(Wii)といったインターフェースの革新へと向かいました。それもすべて「他で見たことのない独自性」を追求した結果です。

また、彼が開発現場のディレクターたちに徹底している「具体的な指示出し」のルールも興味深いものでした。「マリオの走る速度を、もうちょっと遅くして」といった曖昧な指示は絶対にしないといいます。「2倍にして」「半分にして」と具体的な数値を出す。アイデア出しに「いろいろ考えます」は許さず「あと3つ考えます」と言わせる。判断を保留するときも「ちょっと待って」ではなく「明日まで待って」と期限を切る。

「独創」という雲を掴むようなものを、大勢のスタッフと共に一つの「製品」として完成させるためには、こうした論理的で具体的なコミュニケーションが不可欠なのです。独創とは決して魔法ではなく、強烈なこだわりと冷徹なまでの具体性の同居によって生み出されるものだということがよく分かります。

■マリオが受け継がれる未来と、もう一つの聖地巡礼
世界的ゲームクリエイター・宮本茂。彼の根底には常に、南丹市園部町の野山を駆け回り、探検し、泥だらけになって遊んだ少年の姿があります。自然の物理法則を体で学び、自分で工夫して遊びを創り出した体験こそが、デジタル空間における最高のエンターテインメントへと昇華されました。

宮本氏はマリオという存在について問われた際、手塚治虫作品における「ヒョウタンツギ」のようなものだと表現しています。テクノロジーが進化し、新しい技術が登場するたびに、それに合わせてマリオの新しいゲームが作られていく。自分がいなくなったとしても、次の世代のクリエイターたちがまた、マリオを使って新しい遊びを生み出してくれるだろう、と。

もしあなたが、ゲームのプレイで行き詰まったり、日々の仕事や生活で新しいアイデアが浮かばず苦しんだりしたときは、一度画面から目を離して、子供の頃に夢中になった外遊びの手応えを思い出してみるのも、悪くないかもしれません。

そして余裕があるならぜひ、京都府南丹市園部町へ足を運んでみてください。そこには、マリオが初めて跳躍し、リンクが初めて剣を振るった「原風景」が、今も変わらず広がっています。世界中のゲームファンにとって、これほど尊く、想像力を刺激される「聖地」は他にないのですから。
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