今回ご紹介するのは、平安時代に生まれた藤原得子(ふじわらのとくこ・ふじわらのとくし・ふじわらのなりこ)という女性。
歴史にあまり詳しくない方であればあまり聞きなじみのない名前かと思いますが、実は大きく歴史を動かすことになる人物でもあるのです。
今回は、そんな藤原得子という女性について詳しくご紹介したいと思います。
美福門院像(安楽寿院蔵)Wikipediaより
父の愛を一身に受け育つ藤原得子は、永久5年(1117年)に権中納言の藤原長実(ふじわらのながざね)と左大臣・源俊房の女、方子とのあいだに生まれました。
歴史物語の『今鏡』によれば、彼女の父は「ただ人にはえゆるさじ(=並みの人に嫁がせる気になれない)」と語ったとか。一人娘であったこともあり、父の愛を大きく受けていたのですね。
■鳥羽上皇に見初められ、寵愛を受ける
藤原得子の父は、白河院政期には、院近臣(院の近臣。院政期に台頭した新興勢力)でした。父の死後は二条万里小路亭で暮らし始めますが、長承3年(1134年)に鳥羽上皇の寵愛を受けるようになります。これについて、どのような経緯かはわかっていません。ただし、得子は大変な美人だったといいます。
鳥羽法皇肖像画(Wikipediaより)
鳥羽上皇は当時、皇后(藤原璋子)がいましたが、藤原得子は鳥羽上皇の寵愛を受け、保延元年(1135年)に叡子内親王、保延3年(1137年)暲子内親王、保延5年(1139年)皇子・体仁親王(後の近衛天皇)を出産します。
当時の天皇・崇徳天皇には子どもがいなかったため、体仁親王が皇太子となり、得子は大出世。
■「保元の乱」のきっかけを作る
残念ながら近衛天皇は17歳という若さで亡くなってしまいます。当時彼に子どもがおらず、本来であれば崇徳上皇の第一皇子が即位するはずですが、それをしりぞけ、後白河天皇を即位させます。
これにより、鳥羽上皇・藤原得子・藤原忠通・後白河天皇のグループと、崇徳上皇・藤原忠実・頼長(鳥羽上皇により失脚させられていた)のグループの対立が生まれます。
鳥羽上皇の崩御を受け、崇徳上皇側が挙兵。対する後白河天皇の兵を集め、崇徳天皇らを破ります。これが保元の乱です。
後白河天皇の即位には得子らの思惑があったとされていますから、保元の乱のきっかけを作ったと言っても過言ではないでしょう。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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