【前編】寂聴さん元秘書が語る 出家前の“はあちゃん”の素顔と孤独より続く

故・瀬戸内寂聴さんを、秘書として公私ともに支え続けてきた長尾玲子さん。

寂聴さんのいとこの母とともに、中学時代から寂聴作品の資料集めなどをしてきた。

自殺を心配されるほど悩んだ出家前、50代で発症したくも膜下出血、「青空説法」誕生秘話、お茶目さと対極にある孤独の影……。初めて語る、寂聴さんの知られざる素顔。

京都市・嵯峨野に寂庵ができて、寂聴さんは東京と京都を行ったり来たりの生活へ。そして出家からおよそ1年が過ぎた’75年の年明け早々、寂庵から1本の電話が入る。

「はあちゃんがくも膜下出血で入院したとの報を受けて、急ぎ、母と私が京都に駆けつけました」

病院のベッドの上で、寂聴さんはまひした左手をさすりながら、怪しいろれつのまましゃべり始めた。

「あたし、書けなくなるかもしれない」

しかし、幸い発作は一度で済み、少しずつ日常を取り戻していった。

「周囲には気づかれませんでしたが、ラ行の発音は年末まで戻りませんでしたね。売れっ子だっただけに、当時、病気は公表されませんでした」

その2年後、大学3年生になっていた長尾さんに、当の寂聴さんから電話があった。

「書庫の整理に、寂庵に来てちょうだい」

こうして長尾さんは大学の休みなどを利用して寂庵に泊まり込みで通うようになり、卒業後に正式に秘書となった。

「昼間は執筆作業を手伝い、疲れ切って夜中に寝てたら、いきなり起こされて『寝ちゃった?』とくる。だって自分が『あたしは徹夜で書くから先に寝てなさい』って言うから寝てたのに(笑)」

それから、2人だけの深夜の宴会となった。話題は世間話に噂話。

「お酒はなんでも余っているものでよくて、アテは寂庵の裏の3坪の畑からねぎなどを摘んできて、瀬戸内自ら料理もして。切り昆布と梅干し、かつお節をくしゃくしゃと混ぜただけの簡単なものでも、これが意外においしいんです」

このころ、長尾さん自身の私生活でも変化があった。25歳で結婚し、翌年には長男も生まれた。

「出産や子育てで忙しい間は、母が私の代わりに手伝いに行ったりもしていました」

大病をしたあと、再び以前と同じように精力的に仕事をこなしていた寂聴さんだったが、長尾さんは、明らかな変化を感じ取っていた。

「瀬戸内にとって、あのくも膜下出血という、書くことを奪われるかもしれないほどの体験をしたことは、自分の人生を深く振り返るきっかけになったと思うんです。

全作品を読み返した私ですが、瀬戸内は、病気をする前、作品中に自然描写のほとんどない作家でした。

それが、あの大病を境に、ものの見方も、文章も明らかに変わりました。早くも療養中のエッセイから水彩画のような自然の色や描写が出てくるんです」。

■出会いから60年超ーーもっとも近くにいた“相棒”が心に刻み続けた奔放作家“心の声”

「これは誰にも話したことがなかったんですが、先日、瀬戸内の出家について考えていて、思い出した会話があったんです」

くも膜下出血での退院後、2人で寂庵を散歩していたときのことだという。寂聴さんが庭の緑を見ながら、ぽつりとつぶやいた。

「私、傲慢だったわね」
「どうして?」

珍しく弱気な言葉を発する寂聴さんに、血縁の気安さもあって率直に尋ねた長尾さんだった。すると、こんな答えが返ってきた。

「去年は咲いていた名も知らない花をすっかり忘れちゃっても、また1年たって同じ花が咲いている。それを当たり前だと思っていた私は、すごく傲慢だった」

そもそも出家後、寂聴さんは、来し方を顧みるような言葉を幾度も発するようになっていた。

「傲慢だったというのは男女関係のこともあったのでは。不倫関係に悩む女優さんなどにも、世間的にまっとうな回答をして、がっかりされることもたびたびでした。

『あたしは、自立しているので不倫相手の家族には迷惑をかけてないと思っていたけど、違うのよ。存在そのものが迷惑なんだと気づいた』と」

傲慢という言葉を思い出して、寂聴さんの心のうちに思いを馳せた長尾さん。

そこで見えてきたのは、やはり寂聴さんの、書くことについての強い決意だった。

病気の前の出家も、作家としての行く末を考えてのことではないかと、長尾さんは言う。

作家として、書くことに馴れてしまった自分を許せなかった。

「『ウケるように、売れるように書くテクニックはいくらでもあるが、それは使いたくない』と言っていました。そんな書き方も傲慢ということだと思うんです。

当時はそこに、ハードワークや更年期もあり、さらに当時、4歳で徳島に置いてきた娘さんが結婚したのですが、何もできなかった。

そうして作家としての新たな地平を開くことが、自分のすべてだと思うようになったのでしょう」

出家や大病を経験し、まさしく生まれ変わった寂聴さんに、さらなる変化が起きていく。

お経を唱えながら、お金や食べ物を受けて回る托鉢を体験したあとには、こんなことを語った。

「『あたしは、あっち側の人間になっていたのでは』と言うんです。徳島の少女時代には、瀬戸内の実家の仏壇店は商店街にありましたから、巡礼の人たちに対して、店先に施しの接待袋を置いていました。でも、大店ほど接待をしないものだったと。

成功した作家として過ごすうちに、駆け出しのころに食うや食わずの生活をしていた自分を忘れ、いつかあっち側、贅沢をしている大店側に安住してしまったのではないかと」

やがて、作家業とともに、社会に対して奉仕する無償の活動が増えていく。

寂庵や、岩手県の天台寺住職に就任したのを機に同寺で始まる、本誌連載でもおなじみだった「青空説法」を始めた。軽妙ながら奥深い語り口で、人生指南の達人としても多くのファンが生まれた。

’91年、湾岸戦争後には医薬品などを持って、バグダッドに飛んだ。

「生業の書くことはきちんと報酬を得る、講演は主催者の提示した報酬をいただく。しかし、僧侶としての活動と、自発的に行う社会活動は無償だと、自分の中で決めているようでした」

青空説法などにも秘書として付き添い、マスコミ対応なども一人でしていた長尾さん。

「日本中を飛び回って、1年間に説法と講演を108回も行った年がありました。

瀬戸内が言うんです。自分のために出家したけど、出家してわかったのは、そうじゃないんだと。世のために働かなきゃいけないんだと。『こんなことなら、出家するんじゃなかった』とこぼしながらも、本当に身を削るように一生懸命にやっていましたね」

■忘れられることを恐れた寂聴さんのことを、これからも書いていく

寂聴さんと強い信頼関係を築きながら、長尾さんが’10年に秘書を辞めたのにはこんな理由があった。

「直接のきっかけは、私が体調を崩したからです。瀬戸内の仕事をして3回、倒れていますが、特に最後は毛細血管が破裂して目と鼻と耳から血が噴き出したほど。このころは19kg痩せました。辞めたあとは私もシングルマザーになったりして、なかなか直接は会えませんでした」

今も思い出すのは、長尾さんだけに見せていた、人間らしい姿だ。

「瀬戸内は、いつも自分が世の中から忘れられることをいちばん恐れていました。『5年もしたら作家は忘れられる』が口癖だったほど。

作家としてもですが、やはり一人の人間として、みんなに忘れられたくなかったのでは」

晩年には、こんな言葉も漏らしていたという。

「あたしの作品で残るのは、西行について書いた『白道』などの評伝と『源氏物語』、あとは『夏の終り』くらいだろうね」

長尾さんは秘書を辞めたあと、昨年まで日本文藝家協会で著作権管理部長を務めた。

「著作権の仕事で瀬戸内に連絡すると、以前の調子で『来ない?』って言われるんですが、私も忙しくて。やがてコロナ禍となり、久しぶりに電話で話したときには、

『だあれも来ないの』

なんて言いますから、やっぱり寂しいんだと思いましたね」

昨年11月9日に訃報を聞き、その4日後に、身内だけの家族葬が執り行われ、長尾さん母子も最後のお別れができたという。

「娘さんやお孫さん、母と私など30人弱の集まりでした。その直後からですね、母がはあちゃんのことを語りだしたのは。

今、母がよく言っているのは、深夜早朝の長電話の相手がいなくなって寂しいということです」

長尾さん自身、寂聴さんに教わったことを大切にしながら、書くことは続けていきたいと語る。

「『夏の終り』『源氏物語』はもちろん、『いずこより』など私も大好きな瀬戸内の小説のこと、まだまだ語っていない2人のエピソードも、みなさんに知ってほしい。それが、はあちゃんを忘れないことにつながればうれしいですね」