介護ヘルパーである長田テツ子さん。訪問介護事業所「てんまるっと」(静岡県浜松市)に所属するヘルパーとして、日々100キロの山道を、ワンボックス軽自動車を運転して、利用者のもとを訪問している。

テツ子さんが訪問介護の道に進んだのは81歳のとき。現在に至るまでの紆余曲折の道をテツ子さんに聞いた(前後編の後編)。

■何十通ものラブレターで愛を深めた

軽自動車の車両ナンバーを“1117”にしているとおり、テツ子さんが生まれたのは、1939年11月17日。6男4女の10人きょうだいの、7番目の次女だった。

「躾(しつけ)や礼儀は上のきょうだいから教えられました。母の唯一の口癖は『兄を泣かせるようなことだけはしてくれるな』ということだけ」

テツ子さんが訪問介護で利用者宅を訪れる際、正座をして両手をついて、地べたにつくほど深々と頭を下げるのは「幼いころからの躾」のたまものなのだ。幼少期、実家は現在の住まいよりも10キロほど山奥の龍山村にあり、近辺は平和で、戦争を感じることはなかった。むしろ戦争の影響は、兄のほうが受けていた。

「戦時中ということもあって、上の兄2人は学校に行けなかったし、すぐ上の兄は通信制の高校。だから、私が中学を卒業したとき『学校くらいは出ておかなければダメだ』と、地元の高校に通わせてくれました。それが子供心に切なかったんです。

高校時代、同級生たちは放課後に寄り道して、お好み焼きや焼きそばを食べたりしていましたが、私は兄たちに申し訳なくて、一度も寄り道したことはありませんでした」

高校卒業後は、当時の花形職業だったバスガイドに憧れを抱いたが、兄たちに言われるまま、服飾関係の学校に進学するのだった。

「バスガイドへの夢を母は応援してくれましたが、意気地がなかったのか、兄の前で自分を通すことはできなかったんですね」

服飾学校で高等科、師範科をそれぞれ1年通い修了。

「寸法を測るところから、型紙を作り、生地の裁断、裁縫と学んだので、卒業後はスーツ500円、洋服150円で、近所の人をお客さんに仕事を受けていました」

自宅で洋裁の仕事をする一方、同時に始めたのは、青年団の活動だった。近隣のさまざまな地区の若者が集まる研修会や会合は、男性との交流の場でもあった。

「若い人たちが集まるのが楽しそうで、青年団への憧れがあったんですね。フォークダンスが好きで、羽目を外して帰りが遅くなってしまうことも(笑)。兄たちには『9時を過ぎたら鍵を閉めるからな』とくぎを刺されたりしていました」

青年団の活動を通じて知り合ったのが、のちに結婚することになる3歳年上の叶彦(かなひこ)さんだったのだが、父親は交際に大反対。それでも叶彦さんは《僕はテツ子さんが好きです。君は僕以外の誰にも渡しません。従って君の心も絶対に動いては困ります》と、何十通ものラブレターや、《天竜や 月の光に心寄せ 明日の苦しみ ついと忘れて》といった短歌を送った。

そんな熱意が父にも通じ、テツ子さんは22歳のときに結婚。叶彦さんに嫁いだからこそ“今の自分がある”という。実家では厳しい兄がいたが、嫁ぎ先には義母と義祖母にかわいがられ、自由に過ごすことができた。

「24歳から30歳までに3人の娘に恵まれましたが、特におばあさんはすごく優しくて、子供の世話もやってくれました。だから私は、子供をおぶってお台所をやったこともないくらいなんです」

叶彦さんは、テツ子さんが積極的に外に出て働くことを応援してくれた。

■直面した利用者の死…奮闘するうちに気づけば地域の“顔”に

「いちばん最初に勤めに出たのは、まだ娘が幼稚園のころで、近所のガソリンスタンドです。最初の給料は2万8000円でした」

元来、人当たりのいいテツ子さんは、客商売は向いていて、給料も倍額まで増えていった。

「でも、職場近くの橋が撤去されることになって、お客さんが激減し、仕事が続けられそうもなくなったんです。そんなとき、近所の人から『厚生会の仕事があるんだ』と聞いたんです」

身体障害者施設や高齢者施設でケアをする厚生会の仕事は、未知の世界。役所勤めで福祉関連の部署にいた経験もある叶彦さんも「お前には勤まらないかもしれない」と案じた。

仕事はフルタイムで、振替休日があるものの日曜出勤もあったし、夜勤もあった。入浴や食事、排せつの介助は体力も必要だった。何より叶彦さんが心配したのは、ここでは利用者の死に直面することもあったことだろう。

「若かったころ、浣腸のあとで容体が急変した利用者さんがいて……。汗びっしょりになって、苦しむ姿を見て、亡くなったときは涙が出ました。

上司からは『仕事で涙を出すのは、プロじゃない』と言われてしまったり……。当時は自分の気持ちを否定できず、仕事だと割り切れませんでした。

でも、仕事を続けるうちに1日に5人の看取りをすることもあったりすると、次第に慣れてしまい、仲間内で『身内が亡くなったら、どういう気持ちになるんだろう』と話したりしていました」

利用者の死と直面するため、亡くなったときに後悔しないよう、懸命に日々のケアに努めた。

「仕事中に利用者さんから声をかけられても、忙しいときは、つい『あとでね』と言って、そのまま忘れてしまったりすることも……。主人からよく言われていたのは『後回しにしてしまっても、必ず、利用者さんのところに行って、さっきはごめんねと言って、ちゃんと話を聞いてあげなさい』ということでした」

そうした夫のアドバイスや応援を支えに、テツ子さんはまっしぐらに福祉・介護の仕事に取り組み、58歳にして介護福祉士の国家資格に挑戦。

「教科が14くらいあって、とにかく勉強するのが大変。10人くらいの仲間がいて、みんなでお昼休みにプレイルームで勉強したり、自宅では夜の2時過ぎまで、覚えることを口に出して勉強したりしていました」

合否の結果をドキドキしながら待っていたが、見事に合格。

「自分にとっても大きな自信になりました。この資格があるからこそ、今の訪問介護の仕事に就くことができたんです」

60歳を迎えるまで厚生会で働き、さらにそれから10年、再雇用として夜専(夜勤専門)のスタッフとして活躍。月7回、夕方5時から翌朝9時までで、仮眠時間は4時間という不規則な勤務形態だった。

ちょうどそのころから、日中は社会福祉協議会が運営する「元気はつらつ教室」で、高齢者を対象に介護予防の取り組みを始めた。

「高齢者の生活指導をしたり、健康体操などをやっています。

遠足に行ったり、生花を生けたり、クリスマスツリーを作ったりもしました。はつらつ教室は今でも続けています」

長年、地元・天竜区の地域介護を支えてきたことでとにかく顔の広いテツ子さんは、2020年、81歳にして大きな転機を迎える。現在、在籍している訪問介護事業所「てんまるっと」代表の鈴木久美子さんが振り返る。

「私は包括支援センターなどで働いていたんですが、厚生会などを通じてテツ子さんとは顔なじみでした。テツ子さんは地域のことを熟知していて、どこに誰が住んでいて、その親戚や同級生は誰かということまで知っている。

地域にはこういうつながりが大事だから、2021年1月に訪問介護事業を立ち上げるとき“この地域をまかせるなら、この人しかいない”と、いちばん初めにテツ子さんに声をかけたんです」

ところが、テツ子さんは迷った。

「訪問介護は経験がないし、年齢も80歳を超えていましたから。でも、鈴木さんが『年齢は関係ありません。テツ子さんならできます』と断言してくれたから、やってみようかと。

未経験だからこそ、逆に構えることもなく入っていけたのかもしれませんが、雲をつかむような話。私にとって、一つの冒険でした」

テツ子さんほどのキャリアがあっても、訪問介護の仕事には戸惑うこともあった。

「最初に担当した双子の姉妹の利用者さんには、拒まれてしまったんですね。

ご自宅に行っても、お薬をちゃんと飲んだのか確認すると“もう、いいです”と、ほんの2?3分で返されてしまうんです」

ここからがテツ子さんの腕の見せどころだった。

「私と同じ年だったこともあったし、地元の共通の知り合いの話をしたり、名前の由来を聞いたり、会話することで距離を近づけていきました。徐々に“この人なら”って受け入れてくれて、部屋のお掃除もさせてくれるほどに」

姉妹のうち、妹が高齢者施設に入所することで、自宅に残された姉はひどく悲しんだ。ご飯もいらないと言うし、お散歩にも行きたがらない。

寂しくて「死にたい」と言いだしたとき、テツ子さんは「死んだら、私が困るだよ。せっかく仲よくなったじゃない」と寄り添った。

「何も特別なことはしていません。ただ、向き合っていくと自然と仲よくなるものなんです」

■夫が教えてくれた。「生きているうちに力になれば、涙は出ない」

もちろん、テツ子さんが利用者の信頼を得るまで仕事に打ち込めたのは、夫の叶彦さんの理解があったからこそ。だが、昨年末から叶彦さんは体調を崩し、食事が食べられなくなり、横になる時間が増えていった。

「お風呂では、髭剃りは自分でやっていたけど、頭や背中は私が洗っていました。湯船に肩までつからないと嫌な人だから、私が介助して湯船に入れて、足をマッサージしてあげたりしていました」

これまでの介護の仕事が、叶彦さんのサポートの役に立ったのだ。

叶彦さんもまた、テツ子さんを頼りにしていたのだろう。

「トイレも壁を伝って、私に支えられながら行っていました。たまに近くに住む娘が家に来て主人を支えようとしたら『お母さんがやるからいい』と断るんですね(笑)」

そんな叶彦さんの、忘れられない一言があるという。

「何がきっかけなのか、はっきり覚えていないのですが『お母さん、死んでから泣く人は、生きているうちにその人にちゃんと寄り添っていなかったからだよ。生きているうちにしっかり力になれば、涙は出ないものだ』って。だから私も『うんと見るから、泣かんようにするね』って答えたんです」

テツ子さんは利用者だけでなく、叶彦さんにも真摯に向き合った。

「年末、主人がカニを食べたいと言ったので、娘も呼んでカニ鍋を作ったんです。でも、主人は『見るだけでおなかいっぱいだ』と、一口しか食べられませんでした。食べられずに弱っていく姿は、介護の仕事の現場で嫌というほど見ていたので、心配でした」

年が明けて1月になると、叶彦さんは1日のほとんどを寝て過ごすようになった。

「朝、『お父さん、行ってくるね』というと、『行ってくればいいよ』と送り出してくれましたが、もしかしたらいてほしかったのかもしれません。訪問介護があっても時間をやりくりして、お昼には必ず一回家に帰っていました」

だが、1月中旬の夜中、叶彦さんの喉がゴロゴロと音をしたため、誤嚥性肺炎ではないかと心配したテツ子さんは、救急車を呼んだ。

「誤嚥性肺炎ではなくて脱水症状と診断され、その日から入院生活が始まりました」

テツ子さんは毎日のように、仕事が終わってから病院に顔を出した。たわいのない会話もしていた。

「私のこと、わかる?」
「くだらんこと言うな」
「じゃあ、名前呼んで」
「テツ子」

「結婚してから名前を呼んでもらえなかったから、うれしかったですね」

病室で2人きりで過ごす時間は穏やかだったという。だが、日々、弱っていく叶彦さんは、1月23日、87年の生涯の幕を閉じた。

「最期は病室で1時間ほど一緒に過ごすことができて、安らかに看取ることができました」

60年以上も連れ添った夫の葬式では、もっと泣くかと思ったが、不思議と涙は出なかった。

「生きているうちにしっかり力になれば、涙は出ない」

叶彦さんの言葉どおりだった──。

「がんばって生きてきた人が、人生の最後に豊かな時間を過ごせたと思ってもらえるように、介護の仕事でも、利用者さんの想いに寄り添っていきたいです」

(取材・文:小野建史)

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