幕末の幕府を大きく動かした実力者は誰か。歴史家・作家の加来耕三さんは「幕末にフランスを『師』として横須賀製鉄所を建設した、勝海舟と双璧をなすと評された人物がいた。
もし生きながらえていたら、明治の時代はもっと違うものになっていたはずだ」という――。
※本稿は、加来耕三『歴史の一流は「師匠」から何を学んだのか』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。
■勝海舟より4歳年下の実力者
幕末において、勝海舟と双璧をなす幕府の実力者に小栗上野の介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)がいました。
逼迫する幕末の情勢下、幕府は海舟を左遷させると、小栗を登用し、その小栗を役職から外すと海舟を用いる、といったことをくり返します。
小栗は、令和9年(2027)のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公にも選ばれましたが、彼にも知る人ぞ知る、彼なりの明確な目的意識がありました。それは名門の旗本の家に生まれた立場から、幕府の繁栄と力強い存続を取り戻すことでした。
幕末に幕府のご威光が次第に衰えていく中で、小栗は幕府を守るために必要な知識を学びつづけました。長く泰平の世がつづいたことで、すっかり使いものにならなくなっていた“旗本八万騎”の中で、小栗や彼に感化された周辺の旗本だけが危機意識を持ち、懸命に学びつづけていたのです。
小栗は、海舟より4歳年下です。曾祖父が旗本の株を買って、息子(海舟の祖父)を旗本にした流れの勝家とは違い、小栗家は三河(みかわ)以来の旗本でした。神田駿河台(かんだするがだい)に屋敷を持ち、2500石の大身である小栗は、生粋の高級幕臣です。
小栗の家は、代々当主が「又一(またいち)」を名乗ってきました。

これは徳川家康に仕えた小栗忠政(ただまさ)に由来していました。姉川の合戦のおり、危機一髪で家康を救い、「信国作(のぶくにさく)」の名槍を褒美として与えられた忠政は、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いでも常に“一番槍”を勝ち取り、家康から「また勝ったか」「この度もまた、一番槍は忠政かー」と賞賛され、家康が「今後、“又一”と名乗るように」と命じたことに由来しており、忠政の家は誉(ほまれ)高い正真正銘の名家だったのです。
■漢学だけでなく蘭学にも国際情勢にも通じる
軟弱で使いものにならない旗本が多い中にあって、小栗忠順は幼い頃から文武に勤しみ、見事な成績を収めていました。剣術は直心影流を学び、10代で免許皆伝を授けられており、海舟とは師は異なりますが、流派はいわゆる同門でした。
剣術だけでなく、小栗は勉学にも励みます。彼の師匠は朱子学者の安積艮斎(あさかごんさい)ですが、艮斎は漢学だけでなく蘭学にも、国際情勢にも通じていました。
艮斎は昌平黌の教授に抜擢される以前、駿河台の小栗家の屋敷内の長屋で、私塾「見山楼(けんざんろう)」を開いていました。このおり、海防論についての名著『洋外紀略(ようがいきりゃく)』も発表しており、のちには吉田松陰や高杉晋作、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)なども門下生として学んでいます。
艮斎の私塾は小栗家の屋敷内にあったため、小栗も自然に彼から多くを学びました。
師を探すのに苦労した人が多い中で、小栗は恵まれていたといえます。
■日本には新しい軍備の増強が必要と学ぶ
ある日、艮斎から「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)は、密かに中止となりましたが、ご存知ですか」と問いかけられた小栗は、「えっ? 知りませんでした。なぜ中止になったのですか」と問い返します。

すると艮斎は、「つづければ、日本が滅びるからです」と事の真相を教えます。
隣国清で戦われた、イギリスとの戦争――のちに阿片戦争と呼ばれることになるこの戦いは、対清貿易で赤字となったイギリスが、人を廃人にする阿片を清国内で商いしたことから、これを排除しようとした清国と争いとなり、ついに戦争に発展。
封建制の欠点(挙国一致の体制がとれない)を突かれ、清国は敗れて、南京(なんきん)条約を結ばされ、香港を割譲したほか、広東(かんとん)、上海などの五港を開港することになってしまいました。
清国よりはるかに小さな日本が、海外の黒船を打ち払いつづけたらどうなるか……。
艮斎との対話を通じて、小栗は欧米列強の最新兵器に対抗するには、日本も新しい軍備を増強しなければならないことを学びました。
■幕府に対する強い思い入れ
小栗忠順と勝海舟の問題意識=欧米列強への危機感は、ほぼ一致していたといっていいでしょう。
しかし、幕府に対する思い入れには、雲泥の差がありました。
祖父の代に旗本となった海舟は、日本を変えるにはもはや幕府の存在は邪魔であり、倒れるのもやむをえない、と内心は考えるようになります。
それに対して、先祖代々の三河武士の家系に生まれた小栗は、あくまで幕府を中心にした未来を想定していました。今からでも幕府の体制を改革していけば、欧米列強に対抗するのに、なんとか間に合う、と計算し、己れの活躍を信じていたのです。
大老の井伊直弼(たいろうのいいなおすけ)からも認められた小栗は、33歳で目付として遣米使節団(けんべいしせつだん)に加わり、アメリカ合衆国のポーハタン号で、初めてアメリカの地を踏みます。時期は咸臨丸で渡米した海舟と、同じでした。

1860年当時のアメリカは、高層ビルが立ち並び、蒸気機関車が当たり前のように走り、空には気球が浮かぶという、日本では想像もつかない光景が広がっていました。
これらの最新技術に、日本の政府=幕府の目付として参加した小栗は圧倒され、日本との国力の差を痛感し、アメリカを見本(モデル)として、かの国の実情を貪欲に学ぼうとしたのです。
■ネジを大量に造れる技術をわれらも持つべき
小栗のその姿勢がよく表れているのが、ワシントンの造船所を見学した際の挿話かもしれません。
建造に必要なさまざまな部品が製造されている現場で、小栗は足元に一本のネジが落ちていることに気づきました。拾い上げてまじまじとそのネジを見た彼は、ハッとします。
日本では職人が手作業で一つひとつを削り出しているネジが、ここでは瞬時に大量生産されていたのです。そして、その何十本かが地面に落ちていても、誰も頓着(とんちゃく)(気にすること)をしません。ネジは、あふれ出てきますから――。
精密な部品も量産する技術を持つこの国に対し、いますぐ戦っても、到底かなうはずがない、と小栗は悟ったことでしょう。彼はそのネジを日本へ持ち帰り、「このようなネジを大量に造れる技術を、われらも持つべきなのだ」と周囲に説いて回りました。
このおりのネジは、今も群馬県高崎市にある小栗の菩提寺(ぼだいじ)に、大切に保存されています。
帰国後、小栗はアメリカで目撃した大量生産設備の必要性を幕府に訴えますが、これに反対したのが勝海舟でした。

海舟は、そのような大掛かりな施設を建設する時間も資金も、いまの幕府にはない。
そのため、必要なものはその時々、外国から購入すればよい、と主張したのです。
対して小栗は、たとえば購入した黒船が故障した際に、どうするのかと問いかけました。その都度、欧米列強に修理を頼むようでは、自分たちの力で船一つ直せないことになり、真の独立国とは到底いえない、と反論したのです。
自前の技術力にこだわった小栗は、慶応2年(1866)に勘定奉行兼海軍奉行、つまり幕府の最高実力者となると、横須賀製鉄所の建設に着手しました。
製鉄所という名称ではありますが、ワシントンで視察したような造船所も兼ね備えた施設です。ここで陸海軍のための兵器や部品を建造し、一気に幕府軍の近代化を図ろうとしたのです。
■フランスは「師」であり幕府への資金提供者
小栗が手本としたのは、アメリカだけではありませんでした。当時、産業革命によって一強の状態にあったイギリスに対抗して、急速に力をつけて肩を並べるほどに成長していたフランスからも、より多くのものを学びました。
否、あくまで仮想敵国と考えたアメリカに比べ、フランスはまさに小栗にとって「師」であり、幕府への大切な資金提供者でもあったのです。
フランスの急成長の背景には、国民から資金を国が借り入れてインフラ(道路・鉄道・港湾・ダムなどの産業基盤の社会資本、正しくはインフラストラクチャー)を整備し、利息をつけて国民に返済するという経済モデルの成功がありました。
この成功例にならい、小栗はフランスと手を組んで「幕仏同盟」を結成します。

海舟が懸念していた横須賀製鉄所の莫大な建設費用についても、フランスからの借款(しゃっかん)によって賄(まかな)う算段を、小栗はつけていました。
さらに彼は、この政府借款を返済するための、今日でいう銀行と総合商社にあたる「兵庫商社」の創設を計画します。
小栗はフランスから資金を調達することで、徳川将軍家をナポレオン3世の地位へ、日本をフランス式の郡県制へと改め、近代的な造船所や製鉄工場を整備し、一方で貿易による国力の増強=陸海軍の建設を構想していたのです。
■最後まで幕府を見捨てることができなかった
しかし、幕末の情勢は刻一刻と変化していきます。莫大な費用を投じた横須賀製鉄所が完成したときに、果たして幕府が残っているかどうか……。
小栗の部下であり、同じ安積艮斎を「師」とする兄弟子の栗本鋤雲(くりもとじょううん)――外国奉行や勘定奉行を務め、明治時代になってからはジャーナリストに転じた――が、小栗にその疑問をぶつけました。
すると小栗は、横須賀製鉄所を土蔵(どぞう)にたとえたといいます。
「仮に幕府が滅び、徳川家が家屋敷を売ることになっても、“土蔵付き売家”としての名誉は残り、胸を張って売ることができる」
栗本はのちに、「小栗は偉かった、あの人は将来の新生日本の誕生というものを、しっかりと見通していた。最高に素晴らしい人物だった」と回顧しています。
――小栗の最期は、勝海舟と対照的に悲劇の道を辿りました。
彼の上司である15代将軍・徳川慶喜は、京都で大政奉還(たいせいほうかん)をして、新政府の誕生を待てば、十分にその主導権を握れたものを、つい迂闊(うかつ)にも薩長の挑発に乗ってしまい、鳥羽・伏見の戦いに踏み切り、しかも負けて江戸に逃げ帰るという醜態をさらしてしまいます。
それでも小栗は懸命に、慶喜への説得を試みます。
江戸城は当然のごとく、官軍をめぐって和戦両論で大揉めとなりました。
その大評定の席で、恭順(きょうじゅん)の意を表することを決めていた慶喜は、立ち去ろうとするのですが、その袴(はかま)を、小栗は摑んで、「フランス式歩兵と旧幕府の海軍があれば、薩長同盟軍に勝てます」と、引き止めようとします。
しかし、慶喜は耳を貸さず、小栗の手をパッと払って、そのまま退室してしまいました。その後、慶喜は自らは上野の山(寛永寺)に謹慎してしまったのです。
失意の小栗はその任を解かれ、拝領地に戻ってもよい、との徳川家の許しを得て、江戸から離れた上野国群馬郡権太村(こうづけのくにぐんまぐんごんたむら)(現・群馬県高崎市倉渕(くらぶち)町権田)で農業に従事することにしました。
ところが官軍を称する新政府の軍隊は、何もしていない小栗を捕らえ、抗弁も聞かずに、斬首にしてしまいます。
もし小栗が生きながらえて、明治維新後も活躍していたならば、明治の時代はもっと違うものになっていたであろうに、と筆者は残念でなりません。
小栗が造った横須賀製鉄所は、日清戦争、日露戦争における日本の勝利の、陰の立役者といっていいかもしれません。
その証拠に、日露戦争の日本海海戦を勝利に導き、ポーツマス条約の締結を促したとされる連合艦隊司令長官・東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は、小栗の遺族に対して、「小栗さんが横須賀の工場をつくってくださったおかげで、われわれは勝てました」と感謝の気持ちを述べたほどでした。

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加来 耕三(かく・こうぞう)

歴史家、作家

1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など、著書多数。

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(歴史家、作家 加来 耕三)
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