NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、織田信長に利用される室町幕府15代将軍・足利義昭が描かれている。「惨めな将軍」と評価されることが多い義昭だが、本当にそうなのか。
金も兵力もゼロのまま、書状一枚で信長包囲網を完成させた「したたかな実像」が史料から浮かび上がる。ルポライターの昼間たかしさんが史実に迫る――。
■“只者ではない”義昭のキレ者感
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」、やがて天下を手中に収める藤吉郎(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)の姿を描く物語も、浅井勢の裏切りで信長(小栗旬)がピンチに陥ったりと、わかってはいるけど、目を離せない展開が続いている。
でも、そんな中で注目したいのが第10回から登場している足利義昭(尾上右近)である。
続く第11回「本圀寺の変」では、三好三人衆に攻められたりと、登場早々災難極まりない。しかし、今回の義昭は、ひと味違う。ピンチを救うために駆けつけた藤吉郎と小一郎を自分の部下にできないかと考えたり、なかなかキレ者感を匂わせている。
長らく、信長に利用するだけ利用されて放逐されたかのように見られてきた義昭だが、近年では「やはり只者ではなかったのでは」と再評価が進んでいる。
再評価の根拠として真っ先に挙がるのが、信長包囲網の構築だ。義昭は京都を追われた後も将軍位を返上せず、毛利氏を頼って備後国鞆の浦に拠点を移し、全国の反信長勢力に御内書を送り続けた。武田信玄、上杉謙信、本願寺顕如、毛利輝元……これだけの勢力を同時に動かすネットワークを構築したのは、たしかに並の政治家にできることではない。
■「文書一枚」で大名たちを揺さぶる
しかも手元にあるのは筆と紙だけだ。
自ら兵を率いる力も、領地から上がる財力も持たない義昭が、信長に敵対する大物たちを次々に動かしていった。その道具はほぼ一つ、将軍として発給する御内書のみである。
浅井長政は義昭の御内書を受け取ると、直ちに「公方様から御内書を下された」と周囲に喧伝した。将軍が味方についたという事実は、どちらにつくか決めかねている勢力を動かす引力を持っていた。書状一枚で天下の大名を揺さぶる――これは、やはり相当のキレ者でなければできない芸当だ。
その手紙の実像を、戦国史研究の泰斗・桑田忠親は著書『戦国武将の手紙』(人物往来社、1967年)の中で読み解いている。例えば、京都追放後の義昭が吉川元春ら西国の諸将に宛てた御内書を見ると、表向きは礼儀・祝儀の体裁を取りながら、その実、来春の上洛・集会を呼びかけ、毛利氏の出兵を促す内容になっている。桑田はこれを義昭の粘り強い政治意志の表れとして評価している。
直接的な命令ではなく、礼儀の形を借りながら相手を動かそうとする……この婉曲にして執拗な外交文書の技法は、たしかに只者ではない。
現代風に言えば、義昭は「手紙で相手の心をくすぐる天才」だった。「いやあ、あなたのご活躍はこちらまで届いておりますよ」「来春、ぜひ一度お目にかかりたいものですな」などと、表面上はあくまで丁寧な挨拶である。しかしその裏に「ついでに兵を出してくれないか」という本音がびっしり詰まっている。

■軍資金・兵力ゼロでつくった“包囲網”
しかも相手は武田信玄であり、上杉謙信であり、毛利輝元だ。少しでも失礼があれば無視されるどころか、かえって反感を買いかねない相手ばかりである。それを将軍のブランドを最大限に活かしながら、官位をちらつかせ、義理と礼儀でくるみ、気がついたら「動かざるを得ない空気」を作り上げてしまう。
しかも、義昭がすごいのは手紙だけで、実態がないことである。軍資金ゼロ、兵力ゼロ、拠点は毛利に間借り……その状況で包囲網を編み上げたのだ。
これは現代でいえば、レンタルスペースで撮影した「豪邸風」写真をSNSに上げ、レンタカーのフェラーリの前でポーズを決め、「私はこんな生活をしています」とフォロワーを集めるインフルエンサーと、構造としてはまったく同じだ。実態はないが、見せ方だけで人を動かしているわけだ。
もっとも、義昭が現代のインフルエンサーと決定的に違う点が一つある。「一応、将軍やってます」という事実だ。
これは強い。レンタルスペースで豪邸を演じるインフルエンサーと違い、義昭の「将軍」という肩書は本物である。朝廷から正式に任命された征夷大将軍であり、官位を授ける権限も実際に持っていた。
「私に従えば、官途を進めてやろう」――これは口約束ではなく、制度上履行可能な約束だった。
■義昭が信じた「天下への夢」
さらに義昭には、もう一つの武器があった。「夢」である。
義昭に決め文句があるとしたら「今は零落しているが、いつかは必ず京都に戻る。そのとき、私を支えてくれた者には相応の恩賞を与える」となるだろう。ある意味、全国の大名たちもその夢をどこかで信じていた。足利将軍家の権威はそれほど長く、深く、人々の意識に刷り込まれていたのだ。
だがおそらく一番強く信じていたのは、義昭自身だったのではないか。自分こそが正統な将軍であり、いつか天下は必ず自分のもとに戻ってくる……その自己暗示なしに、あれほど執拗に手紙を書き続けることはできなかっただろう。
実に義昭の「夢よもう一度」は、強烈だ。
その執念がもっとも鮮明に表れるのが、本能寺の変の直後である。天正10年(1582年)6月、宿敵・織田信長が明智光秀に討たれた。
この報を受けた義昭の脳内では、おそらく「ようやく出番か!」という言葉が弾けたに違いない。義昭は信長横死の直後から島津義久をはじめ諸大名に矢継ぎ早に手紙を送り始めている。
この年の11月に島津義久に送った書状では、こう書いている。
こんど織田事、天命遁れ難きによって、自滅せしめ候。それについて相残る輩帰洛の儀切々申候条、示合せ、急度入洛すべく候。此の節別して馳走悦喜すべし。仍って、太刀一腰黄金拾両到来。喜び入り候。

(桑田忠親『戦国武将の手紙』人物往来社、1967年)
■献上品に喜び、「上洛」を求めた
要約すると「信長はついに天命に従って自滅しました。みんなで合図を合わせて、さあ今すぐ上洛しましょう。よろしく頼みます。島津さんから太刀と黄金十両が届きました、嬉しいです」である。

ちょっと待ってほしい。島津義久から太刀と黄金十両が贈られてきたことに「喜び入り候」と感激しながら「急度入洛すべく候」と迫る。これは、この書状の体温が伝わってくるではないか。献上品に小躍りしつつ「さあ一緒に上洛しましょう!」と畳み掛ける、これはもはや興奮状態の上司からの深夜のLINEである。「島津さんありがとう! でもそれより聞いて! チャンスだよ! 一緒に動こう!」。
しかも「天命遁れ難きによって自滅」とは、信長の死を天罰と断言する自信満々ぶりである。10年間、鞆の浦で手紙を書き続けながら「私が正しい、天はいつか私に味方する」と信じ続けてきた男の確信が、ここに凝縮されている。
明智光秀はすでに山崎の合戦で敗死している。変から実に5カ月が経過していた。情勢はとっくに動いていたのに、義昭はまだ島津からの献上品に小躍りしながら「さあ上洛!」と手紙を書き続けていたのである。
島津義久の献上品は「将軍」への義理と礼儀であって、実際に兵を動かす根拠にはならないにもかかわらず、である。
■効力が弱まっていった“義昭ブランド”
実に、義昭の情熱とは裏腹に、この頃には、もはや将軍の看板は価値を失っていた。
水野嶺「足利将軍権力の消失」(『国史学』222号)は、義昭が鞆の浦に移座した天正4年(1576年)以降、義昭の御内書の伝達経路に決定的な変化が起きたことを指摘している。それまでは義昭から各大名・国衆へ直接届いていた御内書が、毛利輝元を経由しなければ機能しない仕組みに変わっていたのだ。
義昭が「毛利の諸将に出陣を命じる手紙」を出しても、それは輝元の副状が付いて初めて効力を持つ。義昭単独の命令には、もはや人を動かす力がなかった。将軍の看板を使わせてもらっているのは、義昭のほうだった。
これは、島津氏も同様だった。島津義久は義昭の使者に対し、「一家中への直接の御内書は控えるよう」申し入れている。将軍の手紙が大名の家中に直接届くことを、大名たちはむしろ自家の統制を乱すリスクとして警戒するようになっていた。かつては絶大だった将軍の権威が、この段階では各大名家の内部統制にとって「迷惑な介入」になりかけていたのである。
そして、論文は「足利将軍家が連綿と続いてきたことにより得ていた、社会的な観念としての伝統的権威に過ぎなかった」と結論づけている。観念的な存在、これは現代の言葉に置き換えれば、「ブランドの残像」だ。
■「将軍のお墨付き」が要らない時代に
では、なぜ義昭のブランドは無効化されたのか。答えは単純だ。各大名が「将軍のお墨付き」を必要としなくなったからである。
室町幕府がかつて独占していた機能……土地の安堵、訴訟の裁定、官位の付与を、戦国大名たちは分国法という自前の法体系によって内製化してしまった。今川仮名目録、塵芥集、甲州法度之次第……各大名が「自前の包装紙」を持った瞬間、将軍のお墨付きは不要になった。
なのに、義昭が提示できるのは官位と「いつか帰洛したら恩賞を」という約束だけである。動く側が知りたいのはそこではない。兵を動かすコストに対して、具体的に何が手に入るのか? そのROI(投資対効果)の設計が、義昭の手紙には最後まで存在しなかった。
つまるところ、義昭は「室町幕府という包装紙」の価値がすでに失われていることを信じなかった。いや、信じたくなかったのかもしれない。10年以上、その包装紙だけを頼りに生きてきた男に、それを認めることはできなかっただろう。
これが義昭の本質的な失敗だった。
■「前将軍」を巧みに使いこなしたか
しかし、義昭を単なる「時代遅れの失敗者」と切り捨てるのは、少し早計かもしれない。
晩年の義昭は、豊臣秀吉のもとで御伽衆として遇され、1万石の所領を与えられ、悠々自適の余生を送った。朝鮮出兵の際には秀吉の傍らに従軍し、見送りに来た公卿たちが「あれは前公方ではないか」と目を丸くしたという。
つまり義昭は、どこかで気づいたのだ。夢から覚めた、というよりも夢の賞味期限を最終的には自分で認めた。将軍の看板にしがみつくのをやめ「前将軍」という肩書を新たな処世術に変えたのである。
「上洛バカ」の義昭だが、それだけでは終わらなかった。夢を諦めた瞬間から、彼は案外楽しく余生を送れたのかもしれない。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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