日本人の服装は明治以降、着物から洋服へと変わっていった。神戸大学大学院教授の平芳裕子さんは「明治政府が公的な衣服として洋服を採用したものの、当時の日本人にとっては未知のものであり、マニュアル本を読んで勉強するしかなかった」という――。

※本稿は、平芳裕子『何がダサいを決めるのか』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。
■あの西郷隆盛を慌てさせた“事件”
私たちがなにげなく着ている服にも、歴史があります。明治新政府における服装をめぐっては、こんな逸話も残されています。
薩摩藩士であった西郷隆盛も、宮中へ参内するときには「衣冠」に着替えなければなりませんでした。ところが着慣れないものであるために、途中で紐が切れてしまい、大いに慌てたというのです。西郷隆盛が動揺する様子が目に浮かぶようです。しかしこれは、現代の政治家が慣れないモーニングを着たために、着こなしがよろしくないと批判された事件を思いおこさせます。
ふだん着ない服を着るのは、気を使うものです。みなさんも、もし会社の上司や学校の先生に、「明日は着物で来てください」と言われたらどうでしょうか。大半の人は、「困った」と思うに違いありません。
■当時の日本人にとっては未知のもの
まず、着物そのものを持っていない人が多いと思います。取り急ぎ入手するには、専門店やデパートに行くのが手っ取り早いでしょう。
しかし、反物(生地)を選んで仕立ててもらうには時間がかかります。それに高価なものをすぐに購入するのはためらわれるかもしれません。
そこで、レンタルショップへ行くことにします。たまたま明日着られる商品があったとしても、下着や小物など着物専用のいろいろな付属品も必要になります。それらをなんとか用意できても、今度はどのような順番でどうやって着ればよいのかわからない。そんな方が多いと思います。私たちはふだん「洋服」を着て生活しているので、突然「着物で来てください」などと言われたら、さまざまな問題にぶつかります。
 これと似たような状況を、明治のころの人々も経験したことと想像されます。当時の人々にとっての洋服とは、それまで実際に見たこともない未知のものです。ここでは、日本の人々がどのように洋服を着るようになったのか、その歴史的背景と社会的状況を振り返りながら、現代の私たちの服装の選択について考えてみたいと思います。
■日本へやってきた外国の衣服
日本の人々の服装が、着物から洋服へと変化したことを「洋装化」と呼びます。この「洋装化」や「洋服」という言葉に用いられる「洋」という字は、「西洋」の「洋」を意味しています。

歴史をさかのぼるならば、外国の衣服が日本へもたらされたのは、明治時代からの洋服だけではありません。奈良時代には中国の王朝である唐の装い、戦国時代には南蛮服と呼ばれるポルトガルやスペインの装いがもたらされましたが、その影響は一部の人々にとどまりました。
それに対して、幕末から流入した西洋のファッションは、その後すべての人々の装いを変えてしまったほどに大きな影響力をもちました。そのきっかけはなんだったのでしょうか。
■沿岸警備兵は動きやすい洋服を選んだ
最初に洋服の要素を取り入れたのは、沿岸警備にあたる藩士、つまり兵士たちでした。江戸時代の日本では諸外国との交流が制限されていましたが、幕末になると日本近海にたびたび外国船が出没するようになります。そのため、沿岸部の警備が重要となり、兵士たちが着用する衣服から洋服的な要素が取り入れられていきました。というのも日本の着物にくらべて、西洋の衣服は活動性にすぐれているとみなされたからです。
着物と洋服の違いについて考えてみましょう。着物は布地を豊かに使用します。体を布地で覆うようにして着ますが、しばしば豊富な布地が行動の妨げとなることがあります。一方、洋服は体の形にフィットするように作ります。
体の動きも考慮してつくりますので、機敏な動作に向いています。そのため、武器を持って戦わなければならない兵士たちの装いから、洋服的な要素が進んで盛り込まれるようになったのです。
たとえば、腕の部分を筒形にした「筒袖」、両脚をスリムに覆う「細袴」など、洋服的な形式が採用され、活動的な軍服へと改良されていきました。
■着方がわからない、さてどうした?
このように、日本の洋装化は、軍服から始まりました。洋服は活動性にすぐれており、ゆえに合理的であると判断されたのです。
とはいえ、洋服は多くの日本の人々にとっては見知らぬものです。そのため、初期の兵士たちの服装は、今の私たちから見るとチグハグな組み合わせのこともあり、それこそ「ダサい」ものと思われるかもしれません。しかし当時の人々にとってはそれが最新の服装であったと言えます。
開国後の日本では、西洋化と近代化を目指して、政治家や官僚から率先して洋服が取り入れられていくようになります。1872(明治5)年には、「洋服」が公的な衣服として正式に定められました。
しかし高額な仕立代のかかる洋服は、下級役人にとってかなり懐の痛いものでした。また一般の人々にとっては、洋服を着ようにも、そもそも洋服がどういうものかわかりませんし、洋服を入手しようにも身近には売っていません。

洋服を着るためには、まず洋服とはどのようなものか、洋服の形や種類、洋服の着方や作り方、洗濯や保管の仕方、洋服を着るときの振る舞い方など、洋服をとりまくあらゆる習慣について知る必要があります。そのために、作法書が多く出版されるようになりました。
■福沢諭吉がイラスト付きで解説
明治時代から大正時代にかけて、洋服についてのいわゆるマニュアル本が数多く出版されました。初期のもので特に有名なのは、1867年に出版された片山淳之助(福沢諭吉)の『西洋衣食住』でしょう。西洋の人々が用いた生活用品をイラスト入りで紹介した書物ですが、その最初に「衣の部」があります。
股引き(ツローセルス)、チョッキ(ウェストコート)、沓(シウーズ)、丸羽織(ビジ子〈ネ〉スコート)などの名称とともに、それぞれのアイテムの図が掲載されています。洋服の形、名称、種類と基本的な情報が記されており、多くの日本の人々にとって、洋服が未知のものであったことがよくわかります。
■銀座では3人に2人の男性が洋服姿
また、大正14年に出版された『洋食の食べ方と洋服の着方』という本があります。法学士でありホテルの支配人を務めた横山正男によるマナー本ですが、そのタイトルから、いまだ西洋式の食事も服装も普及の途上であったことがわかります。洋食については、着席からナイフやフォークの使用法などについて細かな説明があります。洋服については、その種類と付属品、身につけ方の解説が記されています。
マニュアル本の存在は、そのような知識を必要としている人がいたということを現代の私たちに知らせてくれます。
では実際に、どれほどの人が洋服を着用していたのでしょうか。同じ大正14年に、銀座における洋服の着用率を調べた記録が残っています。
これは、風俗学者の今和次郎が、洋服と着物の着用率を調べたものです。それによると、洋服を着用していたのは男性の67%、残りの33%の男性が着物を着用していました。東京の目抜き通りの調査ではありますが、大正末には少なくとも洋服を着ている男性が、着物を着用する男性の二倍程度であったことがわかります。
■「波平世代」と「マスオ世代」
しかし外で洋服を着ている人も、当時は必ずしも一日中洋服を着ているわけではありませんでした。
国民的アニメと呼ばれる「サザエさん」の父親の波平さんを思い出してみましょう。波平さんは、スーツで仕事に出かけますが、家に帰ると着物でくつろいでいました。波平さんは幼いころから着物に親しみ、日常着として着物を着ていますが、仕事ではスーツを着用する世代として描かれています。
一方、波平さんの娘にあたるサザエさんの夫マスオさんは、若い頃から洋服に慣れ親しみ、仕事でも家庭でも洋服を着るようになった世代として描かれているのです。
洋服が普及するにつれ、着物と洋服の二重生活は、しばしば非経済的、非合理的なものとみなされて改善が求められるようになります。着物を改良しようとする運動は明治時代からありましたが、大正時代には、大衆社会の成熟とともに、生活改善同盟という文部省主催の団体が登場し、衣食住の全般において国民生活の合理化と近代化を目指す運動がさかんになりました。

■トップダウンで洋装化された日本
現代の私たちはすでに西洋の人々と同じような服を着ています。仕事ではスーツを着たり、パーティではドレスを着たり、洋服はすでに私たちの生活の一部です。洋服を着ていることが当たり前となったので、わざわざ「洋服」とも呼ぶことも少なくなりました。21世紀の現在では圧倒的に「服」や「ファッション」という言葉の方が多く使われています。
しかし、日本の人々がスーツやドレスを取り入れたのは、西洋で近代ファッションが成立した理由とは全く異なります。
これまでも見てきたように、日本における洋装化は、外圧に端を発し、西洋化と近代化を目指すものでした。西洋人に倣い、服装を真似、外見を変えることで、考え方をも刷新する。これらは日本にとって、国の命運に関わる極めて重要な課題でありました。それゆえ、洋装化は明治政府による国家的なプロジェクトであったのです。たかが服ではありません。服装は、国家と個人のアイデンティティに深く結びついているのです。
それゆえに、日本の人々にとって洋服は自発的に着るようになったものではありません。日本の公的な衣服が洋服と定められ、洋服を着ることが推奨され、仕事でスーツの着用が求められたために、自分も従ったのです。洋服の着用は、上からの命令であり、法令により制定されたものでした。日本の人々にとって、スーツを身につけるとは、社会的な規則に従順であることを指し示すことであったと言えます。
■「この着方は正しいか」が関心事に
それに対して、西洋のスーツは西洋の社会において内在的に発展してきたものです。貴族の装いを改善した服装に由来しながらも、近代においては庶民の衣服であった長ズボンが加わり、自由と平等という近代社会の理念を象徴するものとして、階級を超えて取り入れられていきました。
西洋におけるスーツとは、社会的な革命と政治的な闘争を経て、大衆が勝ち取った服なのです。だからこそ、西洋近代の市民社会の象徴であり、強力なモデルとなって、今でも権威的な力をもつ衣服となっています。
ところが日本の場合には、西洋化を目指して、トップダウンでスーツの着用が推進されていきました。そこに人々の自由な意志が存在したかは疑問です。馴染みのないスーツを着るために、一般の人々はマニュアル本を通して、その知識と作法を身につける必要がありました。それゆえ、学んだ知識や作法と実際の行動が合っているかどうかに関心が集まりがちです。
そして、現代の私たちはこの歴史の行先に生まれて、存在しているわけです。そのため時代を経るに従って、違和感を覚えるようになった習慣、不便を感じるようになった服装が出てくるのは当然と言えます。

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平芳 裕子(ひらよし・ひろこ)

神戸大学大学院人間発達環境学研究科教授

1972年東京都生まれ。東京藝術大学美術学部芸術学科卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。専門は表象文化論、ファッション文化論。主な著作に『まなざしの装置――ファッションと近代アメリカ』(青土社)、『東大ファッション論集中講義』(筑摩書房)、『日本ファッションの一五〇年 明治から現代まで』(吉川弘文館)、共監訳書に『ファッションセオリー ヴァレリー・スティール著作選集』(アダチプレス)がある。

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(神戸大学大学院人間発達環境学研究科教授 平芳 裕子)
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