■魯山人は「女の敵」だったのか
ドラマ「魯山人のかまど」(NHK、中江裕司脚本・監督)で藤竜也が演じた伝説の美食家・陶芸家・書家である北大路魯山人(きたおおじろさんじん)(1883~1959年)。
没後66年、いまや本人より、彼をモデルにしたグルメ漫画『美味しんぼ』のキャラクター、海原雄山(魯山人の孫弟子という設定)の方が有名だが、魯山人が海原と大きく違うのは、76年の生涯で5回も結婚して離婚したということだ。
この経歴を聞いただけで、現代に生きる私たちから見れば、女性に次々と手を出す「女の敵」のような匂いがプンプンする。ドラマで描かれたようにプライドが高く、傍若無人で癇癪持ち、使用人はすぐクビにし、仕事仲間や文化人たちとも衝突してばかりいたという魯山人だが、果たして、女性に対してはどうだったのか。
魯山人が京都の旧家に生まれながら、生後すぐ実母に捨てられ、子供のころは孤独で苦労したのはドラマでも描かれたとおり。しかし、東京で書道家・篆刻家として名が売れ始めた25歳のとき、将来を言い交わした仲であった仕出し屋の娘タミを京都から呼び寄せて結婚する。
タミは美しく献身的な女性だったが、文化的な教養に乏しかったともいう。
魯山人は結婚中から大きな書店主のお嬢さん、“せき”に言い寄るようになり、彼女の父親から結婚の許しをもらうと、冷酷にも2人の息子まで成した糟糠の妻を離縁した。
■「ひどい男説」はどこから来たのか
魯山人が「女好き」で、気に入った女をすぐに布団に押し倒すような「ひどい男」というイメージが広まったのは、白崎秀雄による長編評伝小説『北大路魯山人』(ちくま文庫)の影響が大きい。
その本によると、白崎は魯山人本人と実際に会ったことはなかったものの、2番目の妻“せき”には彼女が老年に入ってから対面して取材したという。
“せき”は白崎にこう言って、魯山人に対する恨み節を展開した。
「北大路ってのは、悪い奴でございましたよ。あれは初めからおしまいまで、私に対しては財産が目当てでございました」
“せき”の実家は、東京の中心地に店を構えていた書肆・松山堂。
“せき”は魯山人から書道を習い始めて、猛烈にアプローチされ、自分は妻子持ちではあるが「家内(最初の妻)が男狂いをして始末がつかないので、とうとう離縁した(実際にはしていなかった)」という説明を真に受けてしまった。そして、魯山人に箱根の旅館に連れて行かれ、「生木を引き裂くように無理強いに結ばされてしまいました」と語ったという。
■「みんなでたらめ」と反論する親族も…
ただ、白崎の小説には創作が多いとも言われ、どこまでが事実なのかわからない。
白崎の取材を受けた魯山人の長男の妻は「白崎秀雄の書いていることはみんなでたらめです」と反論している(長浜功『真説 北大路魯山人』)。
他にも魯山人の女性関係については、たくさんの知人が語っていて、「断言しますが、(魯山人)女にはだらしなかったですよ。とにかく無茶苦茶に手を出す」と言う人もいれば、「容易には女性を近づけなかった」(いずれも同書)と言う人もいる。
どの本でもどの人物の証言でも共通しているのは、“せき”が女優のようなとびきりの美人だったということだ。しかし、その美貌も、魯山人を長くつなぎとめておくことはできなかった。
魯山人は38歳のとき、会員制の食堂「美食倶楽部」を主宰し、食通としても有名になる。そして、42歳で東京の一等地・赤坂に伝説の料亭「星岡茶寮」を開き、政財界の大物たちに「星岡茶寮の料理を食べたことがなければ、一流の人物とはいえない」と言われるほどの評判を取って、名士の仲間入りをする。
■20歳下の女中に手を付け、3度目の結婚
すると、「星岡茶寮」で雇った女中の“きよ”と恋仲になって、13年連れ添った2番目の妻“せき”を離縁した。3番目の妻となった“きよ”は、魯山人より20歳も下の24歳だった。
中島美嘉の曲の歌詞「一番綺麗な私を抱いたのはあなたでしょう」ではないけれど、芸能人レベルの美人だった女性を娶っておいて、その妻が40歳近くになったら、20代の女性に乗り換えるとは……。“せき”が魯山人を「悪い奴」と言って恨んでいたというのが事実だとしても、無理のない話だ。
結婚の翌年、“きよ”は魯山人の娘・和子を産んでいるので、できちゃった再々婚でもあったようだ。子のいなかった“せき”は離婚を拒みにくかったと、白崎は書く。
しかし、料亭で上司としての魯山人にうまく仕えていた“きよ”も、家庭人としての魯山人の横暴には耐えられなかった。
その後、「星岡茶寮」のオーナーたちから追放された魯山人が、北鎌倉に開いた陶芸の窯「星岡窯」に併設した古民家で暮らすようになると、“きよ”はまだ10歳の娘を置いて、窯の元職人と駆け落ちした。
■「魯山人との結婚は自己責任」
しかし、そんな修羅場を踏んだにもかかわらず、“きよ”は後に引きずらない“強メンタル”の持ち主だったようだ。
魯山人の没後には悪びれず、ムック『別冊太陽』の魯山人を追悼する座談会に出て発言しているし、白崎秀雄に会ったときもこう語ったという。
「私が魯山人のような男と結婚したばかりに一生を誤(あやま)ったとか、あたら生涯をメチャメチャにされたとか、私に同情して云って下さる人があります。私は自分がむかし魯山人の芸術家気質らしいものに何も分からぬながら惹かれていたのも確かですし、魯山人がそこいらにいくらでもいるような芸術家ではなかったのは本当でしょうから、後悔はしておりません」
(白崎秀雄『北大路魯山人』ちくま文庫)
一応、1回目から3回目までは、それぞれ5~10年ていどの結婚期間があり、合計3人の子どももできて、それなりに家庭生活を営もうという意志が見えるが、4回目と5回目の結婚は1年ほどしか続かなかった。
■料理研究家、芸者を次々に妻に
魯山人はひとり娘の和子を溺愛していたが、その母“きよ”が失踪してしまい、和子の母親代わりを慌てて探していたのかもしれない。
4人目の結婚相手は、自著も出している料理研究家・熊田ムメだった。
広島高等女学校を出て、栄養学を学んでいたムメ。魯山人の料理は完全に我流だったため、星岡茶寮では思いつきで川エビの躍り食いなどを出していたが、ムメは「生の淡水魚類はジストーマなど寄生虫の恐れがありますよ」とアドバイスしたという(のちに魯山人はこのジストーマが原因で死去する)。
もちろん、ムメは著名な美食家である魯山人を尊敬しており、魯山人も彼女には一目置いていて、お互いにWin-Winの関係になれるパートナーのはずなのだが、この結婚もたった1年で破綻してしまった。
そして、魯山人が5回目に結婚したのは新橋の芸者だった梅香(本名・那嘉能(なかの)。白崎の小説によると、芸術家の妻になりたかった梅香の方が結婚に乗り気だったものの、いざ結婚し北鎌倉の家で暮らしてみると、魯山人は家事のやり方にいちいちダメ出しし、しかも生活費はいっさい出さず、貯蓄のあった梅香が持って当然という態度であったという。
その頃、女中をしていた二見梅子という女性は、ノンフィクション『知られざる魯山人』(山田和著、文春文庫)の中で、こう語っている。
「(四人目の妻の)ムメさん(中略)、いい人やったわいね。そのあとの奥さん、芸者の……(中略)、私らは『奥さん、奥さん』と呼んどりましたけど、性格がよかったですわ。和子さん(中略)、あの子は大人して、ほんまに優しい子やったから、新しいお母さんと問題はなかったですちゃ」
■「娘は俺の種ではない」という妄想
ドラマ「魯山人のかまど」に魯山人の妻たちは出てこなかったが、事実をベースにしており、魯山人と3番目の妻(“きよ”)の間に生まれた娘(モデルは和子)は登場した。
しかし、複数の証言によると、魯山人は和子をかわいがっていた少女期から一転、妻が他の男に走ったショックからか、「和子は俺の実の娘ではない」(“きよ”が星岡茶寮の幹部と密通してできた子)という根拠のない妄想を、娘本人にも聞こえるように言い出した。
娘の顔は魯山人にそっくりだったというのに……。
和子がグレてしまったのも、これまた無理はないと思える。
その娘をかばってクビになった女中・春子(中村優子)のモデルは、前出の証言をし和子の母親代わりとなった二見梅子であり(『知られざる魯山人』)、魯山人の家へ通う記者・ヨネ子(古川琴音)のモデルは、魯山人の晩年、その口述筆記をしていた作家・阿井景子と思われる。
ドラマに出てきた魯山人は60~70代の姿と思われ、既に最後の(5回目の)結婚と離婚が終了した後だった。
二見梅子や阿井景子から見れば、年齢からいっても当然、自分には手を出してこないおじいちゃんで、ちょっと頑固でワガママな人という印象だったらしい。
■「みんな女のほうから出ていってしまう」
しかし結局、人生で5回も結婚しながら、晩年の魯山人には寄り添ってくれる妻も娘もいなかった。それは女性たちにしてきた冷たい仕打ちが返ってきた当然の帰結ともえるだろう。
『真説 北大路魯山人』によると、作家の小島政二郎は魯山人の評伝を書いたとき、面と向かって魯山人に、結婚が長続きしない理由を尋ねたという。
「みんな女のほうから出ていってしまうんだ。僕が追ン出した相手は一人もいない。
長浜功『真説 北大路魯山人』(新泉社)
小島はまた、妻のひとり(匿名)にも話を聞いている。
「あの人の言い寄りの激しさといったら、大変なものです。あれほど立派な人が、あれほど情熱を込めて私を好いてくれるなら、と、女としてついそう思うじゃありませんか。
(中略)あの人にとっては、女は手に入れるまでが楽しいんで、一度自分のものにしてしまうと、すぐ飽きてしまうんじゃないでしょうか。世の中って、そういう男の人ッて、存外多いんじゃないでしょうか。女なんてあの人から見たら、芸術の肥やしに過ぎないんじゃないでしょうか」
長浜功『真説 北大路魯山人』(新泉社)
■公衆の面前で殴った女性
魯山人は美しく心優しい女性たちを5人も妻にしながら、ついには彼女たちをひとりの人間として見ることができなかったのかもしれない。厳しく言えば、現在、心理的に研究されるようになったモラハラ夫の典型的なパターンにも思える。「女性の敵」かどうかとジャッジするなら、間違いなく、敵だろう。
そんな魯山人に文字通り「一発食らわせた」女性もいる。
それは魯山人の作品を買い求める立場だった強い女。エッセイスト・評論家の白洲正子は魯山人の作る焼き物を入手し絶賛していたが、「ただ一度だけだが、昔、私は魯山人をなぐったことがある」と書き残している。
パーティーの趣向として、白洲が着ていた紅葉柄の着物に魯山人が墨で書を入れることになったのだが、白洲が着物を脱いで魯山人に渡し、長襦袢になった(洋服の下着姿に等しい)のに、魯山人は途中まで書いておいたところでもったいぶって筆を止め、30分ほど最後の仕上げをしなかった。
「こちらは衆人環視の中で長襦袢一枚でふるえているのである。ついに癇癪(かんしゃく)を起こして、もろに一発食らわせてしまった。魯山人は女になぐられたことは一度もなかったらしく、鳩が豆鉄砲を食らったような顔つきをした。
間髪入れず、(パーティーの主宰者)長尾夫人が飛んで来て、『よくやってくれたわね。あたしが長年やりたかったことなんだよ』。さすが彼女は私よりはるかに大人だったのである」
(『文芸の本棚 魯山人』河出書房新社)
■妻子と絶縁し、孤独のうちに死去
白洲が魯山人を殴ったのも痛快だが、わかもと製薬の創業者夫人である長尾よねのリアクションがさらに痛快である。
よねは、星岡茶寮を追われた後の魯山人に大量の陶磁器を発注し、彼を支えたクライアントであった。魯山人のわがままに手を焼きつつ、晩年近くまで支援を続けたが、その彼女でさえも最後には、魯山人に陰で悪口を言われて絶縁したという。
魯山人を殴っても許されるぐらいの女性だったら、魯山人と対等に付き合えたのかもしれない。彼の女性観を変えることもできたかもしれない。しかし、モラハラ気質の男性はそういう女性を妻には選ばないというのも、昔も今も変わらないこの世の真実なのである。
----------
村瀬 まりも(むらせ・まりも)
ライター
1995年、出版社に入社し、アイドル誌の編集部などで働く。フリーランスになってからも別名で芸能人のインタビューを多数手がけ、アイドル・俳優の写真集なども担当している。「リアルサウンド映画部」などに寄稿。
----------
(ライター 村瀬 まりも)

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)







![NHKラジオ ラジオビジネス英語 2024年 9月号 [雑誌] (NHKテキスト)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Ku32P5LhL._SL500_.jpg)
