■姉川は「家康公はすごかった」伝説
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で姉川の合戦が描かれた。概要だけ述べると、元亀元(1570)年6月28日、近江(滋賀県)の姉川(という川)を挟んで、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍と合戦に及び、織田・徳川連合軍が勝利した。高校の日本史の教科書にも出てくる有名な合戦である。
ただし、負けた浅井・朝倉家はその後に極端に零落したわけではなく、「あの合戦が転機だった」と関係者が語るような重要な分岐点ではなかった。有名な割には、歴史的な意義に乏しい合戦だった。ではなぜ、そんなに有名かといえば、徳川軍ががんばって、劣勢の織田軍を救ったからだ。そして、のちに徳川家が天下を取ったから、幕府の御用学者が盛大に徳川軍の強さをアピールしたに過ぎない。
ではなぜ、徳川軍はそんなに活躍できたのか? その理由を考える前に合戦のあらましを述べておこう。
■実際にはどんな戦いだったか
「豊臣兄弟!」でも描かれたように、永禄13(1570)年4月、織田信長(小栗旬)は朝倉義景(鶴見辰吾)を討つため、越前に進軍。しかし、浅井長政(中島歩)が離反して窮地に陥る。信長は木下藤吉郎(池松壮亮)に殿軍(しんがり)を命じて撤退。藤吉郎は命からがら窮地を脱した(金ケ崎の退き口)。
元亀元年6月21日(1570年4月に改元)、信長は浅井長政の居城・近江小谷(おだに)城を攻めるために出陣。まず、森可成(水橋研二)、不破光治(河内大和)ら8000の兵が雲雀(ひばり)山に上って町を焼き払った。一方、信長の本陣は、小谷城の南方おおよそ2キロメートルに位置する虎御前山(とらごぜんやま)(滋賀県長浜市中野)に布陣し、柴田勝家(山口馬木也)、佐久間信盛(菅原大吉)、木下藤吉郎、丹羽長秀(池田鉄洋)および近江衆に命じて所々を放火させた。
しかし、小谷城が容易に落ちそうもないと見ると、信長は翌6月22日にいったん退却した。殿軍には佐々成政(白洲迅)ら3名が命じられた。6月24日、信長は竜が鼻(滋賀県長浜市東上坂)に首尾よく移動した。ここで、徳川家康(松下洸平)が率いる援軍が到着する。信長は、竜が鼻の南に位置する浅井の支城・横山城(滋賀県米原市山室)の四方を囲ませた。
■浅井は朝倉軍と合流し1万3000に
一方、浅井長政は越前の朝倉義景に援軍を請うた。義景は朝倉景健が率いる8000の兵を出陣させ、自身も追って出陣すると答えたという。6月26日、浅井長政も5000の兵を率い、朝倉軍と合わせて1万3000の軍勢で小谷城の東・大依(おおより)山(滋賀県長浜市大依)に布陣した(兵数は『信長公記』による。諸説あり)。
浅井軍は単独での戦闘を控えて朝倉軍の到着を待っていた。しかし、信長は、浅井軍の消極的な姿勢を見て退陣するとばかり思っていたようだ。ところが、浅井・朝倉軍は夜陰に紛れて移動し、姉川を挟んで織田・徳川軍に対峙するまで接近してきた。
■家康は側面攻撃で朝倉軍を破った
甫庵『信長記』によれば、信長は敵陣の松明(たいまつ)の移動で翌朝の合戦を悟り、急きょ議を開いて家康を先陣に決めた。かくして、6月28日の卯(う)の刻(午前6時)、浅井・朝倉軍が3.3kmほど間合いを詰め、姉川を前にして野村・三田村郷(滋賀県長浜市野村、および三田村)まで出陣し、二手に分かれた。三田村の朝倉軍に家康が向かい、野村の浅井軍に信長の旗本衆、および美濃三人衆が一団となって敵に攻めかかった。
朝倉軍は家康本陣に迫る勢いであったが、家康は榊原康政らに側面攻撃を命じて朝倉軍を破った。織田軍は浅井軍の猛攻でピンチとなったが、家康は稲葉良通(嶋尾康史)に対して浅井軍の側面攻撃をアドバイス、自らも攻撃に加わった(稲葉は織田軍の後詰めで戦陣に加わっていなかったらしい)。
やがて浅井・朝倉軍は総崩れとなって退却。逃げる敵を討ち取るのはたやすく、織田・徳川軍の大勝利に終わった。『信長公記』では敵兵1100余を討ち取ったとあるが、一説には8~9000人の死者が出たともいわれる。
■姉川の戦いはどう評価されたか
姉川の合戦の評価については、渡辺大門編『信長軍の合戦史』所収の太田浩司「姉川合戦と戦場の景観」がまとめているので、それをもとに各研究家の見解を記述しておこう。
・藤本正行氏は、戦国大名同士が広々とした場所で正面から衝突した異例の合戦と評す(『信長の戦争』)。
・河合秀郎氏は、信長が浅井・朝倉氏を徴発して合戦に持ち込んだと説く(『日本戦史 戦国編』)。
・太田浩司氏は、姉川合戦の本質は浅井長政軍による織田信長馬廻りへの「奇襲」とする(『浅井長政と姉川合戦』)。
・桐野作人氏は、浅井・朝倉両軍の仕掛けに、信長が不利なのを承知で旗本馬廻りのみで受けて立ったというのが実情だと述べる(桐野作人『織田信長』)。
・佐藤圭氏は、信長が将軍足利義昭と共同して、あらかじめ決戦の日を6月28日と決め、姉川合戦は織田信長と足利義昭の強度作戦であったと考える(「姉川合戦の事実に関する史料的考察」『若越郷土研究』第五九巻一号)。
■軍議に秀吉・勝家が不在のワケ
桐野作人氏の説は非常に興味深い。桐野氏は「南部文書」の記述を引いて、「信長が諸将を集めて軍議を開くが、そこに同席した者は、美濃三人衆と家康のほか、旗本衆の坂井政尚・池田恒興・市橋長利・丸毛光兼、近江国衆の堀秀村・苅安某だけだった。柴田勝家・木下秀吉など有力な諸将は参加していない点が重要である。また、美濃三人衆を先手に決めたけれど、徳川勢が戦意旺盛で他の諸勢より先んじて進んだため、信長が美濃三人衆から家康に先陣を変更している」と指摘している(桐野作人『』。太字は引用者)。
ではなぜ、有力な諸将は軍議に参加しなかったのだろうか。特に、小谷城攻めに参加していた柴田勝家、佐久間信盛の姿が姉川の合戦でまったく見えないのが奇異に感じる。
■浅井を侮っていた信長の失敗
信長は6月22日に小谷城攻めからいったん退却している。これは私見であるが、信長はこの時に柴田・佐久間を近江の諸城に戻し、両人は姉川の合戦に参加していなかったのではないか。
信長は足利義昭を奉じて上洛する途中、南近江の六角家を滅ぼし、その跡地に織田家臣を配した。現在の大津市付近に佐久間信盛、近江八幡市付近に柴田勝家を置いた。しかし、六角残党はその後もゲリラ活動を行い、金ケ崎の退き口の直後に南近江で挙兵。さらに、信長は5月20日に千草山中道筋(滋賀県東近江市近辺)で杉谷善住坊に鉄砲で狙撃された(銃弾は袖をかすっただけで事なきを得たが)。
信長は、浅井長政が合戦を挑んでくるだけの覚悟がないと侮(あなど)り、むしろ京都に戻る帰路を万全とするため、柴田・佐久間を帰陣させてしまったのだろう。
■家臣でなく徳川軍を先鋒にした
通常であれば、織田家と浅井家の動員能力には数倍の差があると想定される。ところが、今、信長軍は主力部将を帰陣させ、数千の兵しかいない。かたや、浅井軍には朝倉家からの援軍がある。浅井長政は兵力がほぼ互角だと見極め、「勝てる」と思って、明け方の決戦に備えて移動し、姉川を挟んだ陣を敷いた。
信長が気づいた頃には、退却できない状況に追い込まれていたのだろう。
つまり、姉川の合戦で浅井・朝倉軍が織田軍と互角に戦えたのは、かれらを侮って主力部将を帰陣させてしまった信長の判断ミスだったのであるはないか。しかし、兵力がほぼ互角であれば、他国への侵略戦争に明け暮れ、経験値の高い織田・徳川軍の強さは、浅井・朝倉軍の比ではなかったのであろう。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)

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