人生後半を元気に過ごすには、どうすればいいのか。医師の和田秀樹さんは「定年退職後の生活には気を付けたほうがいい。
身体機能の衰えは、足腰よりも先に『心の衰え』や『社会とのつながりの喪失』から始まる」という――。
※本稿は、和田秀樹『老人は「キレる」くらいでちょうどいい』(集英社インターナショナル)の一部を再編集したものです。
■人間が動物である以上「怒り」は消えない
喜怒哀楽の感情は人間が人間である以上、常につきまといます。動物行動学や進化心理学の観点からいえば、ことに怒りの感情は生物のサバイバルにとっては不可欠なものです。自分を攻撃してくるほかの個体や天敵に対して反撃しようとするのは生物としてはごく普通のことであり、その反応が高度に発達したものが「怒りの感情」だといえます。
つまり、怒りの感情というのは人間が動物である以上、決してなくならないものです。いかに優雅に見えて、優しそうに振る舞う人であっても何か不快なことに出合ったり、自分を攻撃してくる相手に向かい合ったときに内心、怒りを感じるのは当然のことですし、怒りを感じないほうがおかしいといえます。
しかし、普通の人は多くの場合、自分の怒りをストレートに表現しないものです。「顔で笑って、心で泣いて」ではなくて、「顔で笑って、心でムカついて」と対応することは決してめずらしくないですし、社会生活を送る上ではそのほうが何かと得策であったりします(怒りを覚える相手とはつきあわなければいいだけのことですし)。
■なぜ高齢者はキレやすくなるのか
ところが、その怒りを押し殺すことができずに、ついついそれを外に噴出させてしまう――それが「キレる」という現象であり、高齢者になるほどキレる人が増えていきます。しかし、高齢者が怒りという感情を上手にコントロールできなくなるのは、いったいどうしてなのでしょう。
これは、おもに加齢による脳の変化によるものだと考えられます。

人間の身体が老化によって自然に衰えていくことは、誰でも知っているでしょう。残念ながら、脳も身体の一部である以上、例外ではありません。私たちの脳は、年を取るにしたがって老化していきます。具体的には脳を構成している神経細胞(ニューロン)が徐々に減っていき、脳そのものが萎縮していくのです。
こうして萎縮してしまった脳を元に戻すことは、少なくとも現在の医学ではできません。
脳の萎縮が病的なレベルまで進めば、認知症のリスクが高まります。とくにアルツハイマー型の認知症は、神経細胞が減って脳が萎縮するのがおもな原因。行動や思考を司っているのだから当然ですが、脳の萎縮が人間に与える影響はきわめて大きいのです。
■前頭葉の萎縮が「心のブレーキ」を壊す
とはいえ、「キレる」という現象が、脳全体の萎縮によって起こるわけではありません。ひとことで「脳」といっても、この臓器は大脳、小脳、脳幹(中脳、延髄など)といったいくつもの部位に分かれています。
そのうち、運動、知覚、思考など人間にとって重要な機能を担っているのが大脳です。その表面を覆う大脳皮質は、さらに前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭葉という部位に分かれています。
高齢者の「キレやすさ」に関係するのは、大脳皮質の中の「前頭葉」にほかなりません。この部位が萎縮することで、怒りの感情にブレーキが利きにくくなるのです。
では、前頭葉は脳の中でどんな役割を担っているのか。大脳全体の約30%を占めるこの部位の働きは単純ではありません。多くの役割を果たしており、人間が人間らしく生きていく上で、とても重要な存在といえるでしょう。ある意味では、もっとも重要な部分といっても過言ではありません。
その重要性は、前頭葉を失った人間がどうなるかを見ればよくわかります。
■ノーベル賞を受賞した「史上最悪の手術」
たとえば、1930年代に統合失調症の治療法として考案された「ロボトミー手術」をご存じの人は多いでしょう。妄想や幻覚によって社会生活に不適応になった患者の前頭葉の神経線維の一部を切除することで症状を緩和するという「画期的な手術」でした。考案したポルトガルの神経科医エガス・モニスには、ノーベル生理学・医学賞が与えられています。
ところがこれは、のちに非人道的な「人類史上最悪の手術」と呼ばれるようになりました。ロボトミー手術を受けた患者たちの多くが意欲をなくして無気力になり、なかには植物状態になってしまう人もいたからです。
この手術を、全世界でおよそ4万人もの患者が受けました。ノーベル賞の授与は、あまりにも拙速だったといわざるを得ません。
この話が端的に示しているのは、人間が物事に対して「意欲」を持てるのは、前頭葉のおかげだということです。いわばアニメ『ドラえもん』(テレビ朝日系、1979年~)の「ハッスルねじ(大きなゼンマイ巻きのような形をしており、人間の背中に当てて巻くと、ネジが戻るまでのあいだ猛烈なスピードで動き回るようになる)」のようなもので、前頭葉が活発に動いていなければ、新しいことに取り組む気持ちにもなりません。
■「新しいこと」を嫌がるのは老化の証
ところが困ったことに、この前頭葉は老化とともに萎縮していくのです。
若い頃は積極的にあちこちを旅していた人でも、年を取るとそれを嫌がるようになることがあります。体力的に難しくなる面もあるでしょうが、それだけではありません。住み慣れた街や自宅にいることに安心感を得るようになり、「知らない土地を見てみたい」「新しい体験をしたい」という意欲が持てなくなるのです。
これが、前頭葉の萎縮による心の変化の典型にほかなりません。
こうした意欲の低下は、身体機能のさらなる衰えを誘発してしまいます。たとえば「趣味でゲートボールをしていたけれど、仲の良い友人が欠席しがちになり、自分も行く意欲を失ってしまった」という人がいます。すると、週に数回行っていた「歩く」「腕を振る」「しゃがむ」といった動作が失われ、2~3カ月後には駅の階段を上るだけでも息が切れるようになってしまい、膝に痛みも出始めます。
筋肉が減ると疲れやすくなるので、さらに運動をしたくなくなることでしょう。
■足腰より先に「心の衰え」が始まる
また、食に対する意欲が低下するのも、身体的に悪い影響を及ぼします。「自分ひとりのために食事をつくるのは面倒」と、パンや麺類だけで済ませるようになるとタンパク質不足に陥り、筋肉が作られなくなります。結果として、握力が落ちてペットボトルの蓋が開けられなくなったり、歩行スピードが目に見えて遅くなったりします。
このように身体機能の衰えは、実は足腰よりも先に「心の衰え」や「社会とのつながりの喪失」から始まるのです。
ちなみに未知の新しい物事を避ける傾向は、女性より男性のほうが強いようです。同じ年代の夫婦でも、海外旅行に積極的なのはたいてい妻のほう。旅行好きの私の友人も、以前こんなことを言っていました。
曰く、ローマやパリ、ニューヨークあたりのホテルで出会う日本人男性の多くは、奥さんに熱心に誘われて「これも女房孝行だ」と一応はつきあう。でも実際に旅行をしてみると面倒なことも多く、「こんなにひどい目に遭うとは思わなかった」などとボヤく人が多い。
■定年後の夫が「旅行」を嫌がるワケ
奥さんたちは元気いっぱいで「今日はどこを観光しようかしら」「何を食べようか」「あれも買いたい、これも買わなきゃ」と貪欲に楽しもうとするのに対して、男たちはみんな「早く家に帰って、のんびりしたい」という顔をしている――。
男性のほうが旅行に消極的なのは、女性よりも前頭葉の萎縮が進んでいるからだろうと私は思います。

というのも、この話に出てくる年代の夫婦の多くは、妻が専業主婦、夫は定年退職後の元サラリーマン。妻はずっと「現役」ですが、夫は定年を境にそれまでフル回転させていた前頭葉をあまり使わなくなっています。脳にかぎらず、人間の身体は使っていないと衰える。長く入院していると足腰が弱るのと同じように、前頭葉も使わないと老化が進むのです。
先述したように、前頭葉が萎縮し、意欲が低下していけば実際問題として運動能力も低下します。ことに歩く力が衰えていけば近所のスーパーに出かけるのさえ億劫になっていき、新しい刺激を受けることが減って好奇心がますます衰えていきます。体力の衰えを理由に、旅行をすることも避けるようになるでしょう。
こうなると、いわば「老化の負のスパイラル」に入り込んでしまうわけで、心の衰えは身体の衰えを惹き起こし、身体の衰えは心の衰えを加速させていくのです。

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和田 秀樹(わだ・ひでき)

精神科医

1960年、大阪府生まれ。東京大学医学部卒業。精神科医。東京大学医学部附属病院精神神経科助手、アメリカ・カール・メニンガー精神医学校国際フェローを経て、現在、和田秀樹こころと体のクリニック院長。
幸齢党党首。立命館大学生命科学部特任教授、一橋大学経済学部非常勤講師(医療経済学)。川崎幸病院精神科顧問。高齢者専門の精神科医として、40年にわたり高齢者医療の現場に携わっている。2022年総合ベストセラーに輝いた『80歳の壁』(幻冬舎新書)をはじめ、『70歳が老化の分かれ道』(詩想社新書)、『老いの品格』(PHP新書)、『老後は要領』(幻冬舎)、『不安に負けない気持ちの整理術』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『どうせ死ぬんだから 好きなことだけやって寿命を使いきる』(SBクリエイティブ)、『60歳を過ぎたらやめるが勝ち 年をとるほどに幸せになる「しなくていい」暮らし』(主婦と生活社)など著書多数。

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(精神科医 和田 秀樹)
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