楠木正成の実像はどのようなものだったか。青山学院大学文学部史学科准教授の谷口雄太さんは「楠木正成が後醍醐天皇とつながっていたことは確からしいが、楠木正成が当時より一層明らかに連絡・協力していた人物がいる。
幕府も、両者を名指しで誅伐対象としていた」という――。
※本稿は、谷口雄太『太平記史観 日本人の歴史認識を支配した物語』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■「河内国の悪党」楠木正成
楠木正成(くすのきまさしげ)といえば、「南朝の忠臣」として名高く、皇居にある銅像を見たことがある方は少なくないでしょう。彼については、『太平記』のストーリーから離れて、その実像を探る作業が進められてきました。以下、生駒孝臣さんの研究(生駒:2016年)を参照して具体的に見ていきます。
まず、「悪党」について。
戦前の「忠臣」から、戦後の「悪党」へと楠木正成の評価が変化したことは、もはや有名かもしれません。悪党とは、鎌倉幕府や荘園(しょうえん)領主が自身に敵対した勢力を呼び指す言葉ですが、永仁(えいにん)3年(1295)には播磨(はりま)国で非法をなしたという「河内楠入道」が見え、元弘元年(1331)には和泉(いずみ)国で押妨(おうぼう)(正当な権利を持たない者が、暴力的あるいは不当な手段で土地横領・所領侵入・不当課税などの非法な行為をすること)をなしたという「悪党楠兵衛尉」が見えています。「悪党」楠木氏の登場です。
河内国・和泉国・播磨国は畿内とその周辺であり、そうした地域に拠点とネットワークを持ち、幕府や領主に対抗していく姿は、まさに悪党のイメージそのものといえるでしょう。大河ドラマ『太平記』でも、武田鉄矢さんが、河内国の土豪・楠木正成を熱演していたのを覚えています。
■楠木正成は、鎌倉幕府の関係者だった
他方、楠木・楠の地名が意外なことに河内国内外には見当たらず、建久元年(1190)には「楠木四郎」なる人物が武蔵国の武士と並びで見えていることから、もともと楠木氏は東国出身で、鎌倉幕府に仕える武士だった可能性が指摘されました。

そして、正応6年(1293)、駿河国に「楠木村」が見え、幕府(北条氏)が鶴岡八幡宮に寄進していたことから、駿河国と楠木氏の関係が推定されるにいたります。
さらに、二条道平(にじょうみちひら)の日記『後光明照院関白記(ごこうみょうてらしいんかんぱくき)』元弘三年(1333)閏2月1日条に、「楠の木の根ハかまくらになるものを枝をきりにと何のほるらん」との和歌が記録されていて、時期的にちょうど幕府軍が楠木正成を攻撃しに関東から攻め上ってきた頃のものであるため、楠木氏の根は鎌倉にあることが(その後、河内国に移ってきたということが)、当時の人々の共通認識だったとうかがえます。楠木氏=東国出自説は、信憑性が高まってきました。
一方、河内国に「楠木石切場(くすのきいしきりば)」との地名(小字)が見つかって、そこが中世に遡る石切場跡であったことから、楠木氏のルーツとも関係するのではないかと、近年、堀内和明さんによって指摘されています(堀内:2002年)。
貴重な指摘ですが、当該地名が中世に遡るかは不明で、楠木氏の伝承が地名に転化した可能性もあり、慎重に検討していく必要があるでしょう。
いずれにしても、楠木正成の評価は「忠臣」から「悪党」ときて、さらに鎌倉幕府関係者だと理解・議論されるにいたっています。当時の武士は一般に鎌倉幕府に従い、土地の支配に加えて流通・交通とも広くかかわる存在ですが、楠木氏もそうした武士の一人と考えられているのです。
村上氏同様、楠木氏も本来は幕府方であり、そのような人々が反幕府方に移行していったため、後醍醐天皇や護良親王に味方した勢力も、必ずしも最初から一貫して反幕府ではないのです。
■護良親王と楠木正成の一体性
そうした楠木正成ですが、後醍醐天皇の忠臣として知られていて、事実、『増鏡』には元弘元年(1331)8月の後醍醐天皇の山城(やましろ)国笠置山(かざまやま)動座に際して、「ことのはじめよりたのみおぼされたりし楠木兵衛正成」と見えます。
その直前には、楠木正成が和泉国の荘園に侵入していますが、その荘園は元来後醍醐天皇が道祐僧正に与えていた場所であり、後醍醐天皇─道祐─楠木正成というつながりがうかがえます。
また、翌年(1332)冬の楠木正成の挙兵も「楠兵衛尉正成ト云勇士、叡慮ヲウケテ」河内国金剛山に立て籠もり「錦ノ御旗ヲアゲ」たのだと『梅松論』は述べています。
このように、楠木正成が後醍醐天皇とつながっていたことは確からしいのですが、楠木正成が当時より一層明らかに連絡・協力していたのは護良親王であり、両者の関係は無視できません。

元弘元年(1331)9月、後醍醐天皇のよる笠置山は幕府軍の攻撃により陥落。他方、河内国では楠木正成が籠城し、護良親王が合流しています。しかし、10月、幕府の大軍を前にこちらも落城し、両者は逃走します。
そして、護良親王と楠木正成の両者は、翌年(1332)冬頃から反幕府活動を本格化させていきます。
このあたりのことを『増鏡』は、「大塔の法親王、楠の正成などは猶おなじ心にて、世をかたぶけんはかりごとをのみめぐらすべし」として、楠木正成が、「さて大塔の宮の令旨とて、国々の兵をかたらひとれば」と記します。この二人が同心・協力している様子がうかがえます。
■幕府も両者を名指しで誅伐対象に
同様に、『保暦間記』も、「隠岐先帝ノ宮、天台座主〈号大塔宮〉、山々ヲ廻テ義兵ヲ挙、河内国住人楠正成ト云者アリ、彼ヲ語フテ河内ト大和ノ境ニ金剛山ト云山ニ城郭ヲ構テ、畿内近国ノ勢ヲ語フ」と記します。『神皇正統記』も護良親王の挙兵→楠木正成の籠城を続けて叙述しています。
事実、12月9日、楠木正成は河内国金剛寺から祈祷巻数(きとうかんじゅ)(僧が願生の依頼に応じて読誦(どくじゅ)した経文などの題目を記して願生に送った文書)を送られて、これを護良親王に進上するとしています。護良親王が金剛寺に度々祈祷依頼をしていたこと(令旨を発給していたこと)は、元弘3年(1333)2月23日付けの楠木正成書状(「金剛寺文書」)からも確認できます。
同様のケースは、和泉国松尾寺からもうかがえます(『徴古雑抄(ちょうこざつしょう)』所収「松尾寺文書」)。さらに、元弘2年12月26日、護良親王は和泉国久米田寺からの祈?申請を受け、「官兵狼藉」を停止する内容の令旨を発給しますが、翌年(1333)正月5日、やはり楠木正成がこれを久米田寺に伝えています。

また、楠木正成が捕縛した紀伊国の武士(保田(やすだ)氏・生地(おんじ)氏)たちが、護良親王の配下(祗候人(しこうにん))となり、楠木正成の籠る金剛山を攻めていた紀伊国の武士の住宅に火を放った事例や、護良親王の側近(四条隆貞(しじょうたかさだ))と楠木一族などが共闘して摂津(せっつ)国天王寺(てんのうじ)にまで攻め込んだケースも確認されています(上横手:1983年)。
ゆえに、幕府も「大塔宮(おおとうのみや)幷楠木兵衛尉正成」と、両者を名指しで誅伐(ちゅうばつ)対象としていたわけです。
■強調される後醍醐天皇と楠木正成の関係
このように見てきますと、楠木正成は後醍醐天皇というより、むしろ、護良親王と一蓮托生の関係にあったのではないかと思えてきます。
この点、「太平記は大塔宮と正成との関係について、ことさらに面を向けるのを避けているようにもみえる」として、「なぜ太平記が大塔宮と正成との関係について、特に触れようとしなかったか」を問題にしたのが、岡部周三さんでした(岡部:1975年)。
岡部さんは、第一に「太平記作者が大塔宮をあまり評価しなかったこと」、第二に「太平記が正成を超人間的な、作者好みの理想人に仕上げてしまったこと」を挙げます。
とくに、第二につき、「太平記は、正成が天皇の夢想という神秘的事件によって、見出された忠臣であり」、「いまさらに大塔宮とのつながりをのべる必要はない」と述べていたことは注目されます。
これを受けて今井正之助(いまいしょうのすけ)さんは、いずれも妥当な見解であるとしたうえで、「いますこし、物語の枠組みから」見てみるならば、「正成は後醍醐の霊夢によって〈太平記世界〉に登場する」以上、「決定的なのは後醍醐との関わりである」とします(今井:1978年・1991年)。
太平記』の描写は、「正成一人」によって、後醍醐天皇の「聖運」は開くとしますので、後醍醐天皇と楠木正成のつながりの印象は強烈です。
要するに、『太平記』は後醍醐天皇を主役とする物語であり、そのなかで楠木正成は後醍醐天皇との結びつきが強調されて登場する、(いわばその分身)という構図になっています。そうである以上、かえって(リアルな)護良親王と楠木正成の関係は後景に退いている、ということでしょう。
■「楠」一字から『太平記』の構想を読み取る
また、そもそも、霊夢の話自体が虚構であり、先述したように、後醍醐天皇と楠木正成の関係それ自体は当該場面(元弘元年〈1331〉8月、後醍醐天皇の笠置動座)以前から看取され、元弘元年春に河内国は動乱(「元弘元年春のとうらん」)となっています(「観心寺(かんしんじ)文書」)。これも同時期頃の楠木正成による和泉国への侵入との関連性が想定されています(堀内:2010年)。

つまり、現実には後醍醐天皇と楠木正成は元弘元年春頃から知り合っていたようですが、『太平記』はそれをあえて同年8月の笠置での出来事(しかも霊夢によるもの)とすることで、楠木正成の登場を劇的に描いているわけです。
堀内和明さんもまた、「天皇と正成の接点を神秘的に描こうとする『太平記』の作為」であり、「『太平記』の創作」であろうと喝破していました。
さらに、今井さんは、現実には「楠木」・「楠」いずれの表記も見えるなかで、『太平記』が「楠」の文字を前面に打ち出している点も、「木に南と書たるは楠と云ふ字なり」と後醍醐天皇が夢解きしたためと指摘しています。
そして、「「楠」には、霊夢により物語世界に登場した正成の特異性が刻印されている」として、僅か一字から『太平記』の構想を読み取り、わたしたちに注意を促しています。

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谷口 雄太(たにぐち・ゆうた)

青山学院大学文学部史学科准教授

1984年、兵庫県生まれ。2015年、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。東京大学大学院人文社会系研究科(文学部)研究員を経て、現職。著書に『中世足利氏の血統と権威』『〈武家の王〉足利氏』(以上、吉川弘文館)、『室町期東国武家の「在鎌倉」』(鎌倉考古学研究所)、『分裂と統合で読む日本中世史』(山川出版社)がある。新田義貞は源氏の嫡流ではなく足利氏庶流だったことを洗い出し、『太平記』の影響力を指摘した。

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(青山学院大学文学部史学科准教授 谷口 雄太)
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