■人生のタイムリミットを思い知る中年期
<お悩み>
仕事にやりがいがない
仕事にやりがいがありません。ルーティンワークで安定した収入が得られる居心地の良さからずるずる勤め続けたものの、このまま定年までやりがいを経験せずに老いていくのか、という焦燥感があります。
中年、それは人生のタイムリミットを思い知らされる時期なのかもしれません。
若いころはつらいことがあっても、この先生きていれば「まだ見ぬいいこと」があるだろうという漠然とした期待がありました。けれど日々ポンコツになりゆく身体は、残り時間の短さを容赦なく私たちに告げてきます。
すぐに息切れする、集中力が続かない、健康診断でAが減っていく……。
「まだ見ぬいいこと」など訪れぬまま、人生が終わってしまうのだろうか。そんな焦りが芽生えてくるのです。
『タタール人の砂漠』は、何も起こらない砦に配属された将校が、敵が現れて手柄をあげる日を何十年も待ち続ける物語です。
主人公は、士官学校を卒業し、新卒で辺境の砂漠の砦に配属された将校ジョヴァンニ・ドローゴ。
砦に向かう道中で出会ったベテラン大尉によれば、砦は通常2年の任期が経歴上4年に換算されるくらい、人気のない赴任地であるようです。
というのも、砦は今まで何も起きたことがなく、一度も役に立ったことがないからです。
その国の人々は、誰も越えたことのない砂漠の向こうにタタール人がいると信じていて、彼らが攻めてくるかもしれないという想定のもと、監視のために砦を設置したのでした。
これまでの町暮らしとはあまりにかけ離れた環境に不安を感じたドローゴは、さっそく引き返したくなります。
しかし上司に、任地の変更願いは大佐の心証を悪くすること、4カ月我慢すれば穏便に辞められることをほのめかされ、おとなしく任務に就くことになりました。
「ここをただちに出て行くことは自分がだめな男だということをさらけだすのと同じではないか」という自尊心が、不安に蓋をしたのです。
■規則まみれの職務に22年間勤務し続けて
将校の仕事は、自分の受け持ちの城壁上を歩いて回り、見張りの歩哨たちがサボっていないかを監督すること。
すこぶる単調な作業ですが、規則は厳しく、マントの襟の高さまで決められています。
さらに上層部がセキュリティのために作った合言葉の運用ルールが複雑すぎるため、勤務の交代時にタイムロスが生じます。現場の声を聞かずにどんどん膨れ上がる業務手順、職場あるあるです。
仕事にやりがいがない。いくら待っても敵は攻めてこない。誰も業績を上げられない。
ドローゴは22年間この砦に勤務し続けた部下の訴えを聞いて、「この兵士にいったいなにが残ったのだろう?」と暗い気持ちになります。砦の外の楽しい世界から切り離され、規則まみれの砦だけが全世界という人生……。
やっぱりすぐにここから立ち去るべきだった。そう急き立てられつつも、母に手紙を書いているうちに母の悲しむ顔が浮かび、思いとどまります。
それが、彼にとっては取り返しのつかない「時の遁走」の始まりでした。
■待ち続けたことを無駄にしたくない心理
4カ月後、転属できるお膳立てをしてもらったにもかかわらず、ドローゴは残りたいと希望を出します。4カ月は、仕事になじむには充分な長さでした。
耐えがたく思われた厳格なルールや勤務体制も、慣れてしまえばさほどつらいとは思わなくなります。
退屈な仕事も習熟してうまくやれるようになれば、それなりの喜びがあるものです。仕事ぶりを認めてくれる職場なら、愛着だってわくでしょう。
少し待てば本当に敵が現れて、手柄を立てられるかもしれない。
青春はもうしぼみかけているのに、彼には人生は長々と続く、
尽きせぬ幻影のように見えた。
ドローゴは時というものを知らなかった。
その後もドローゴには、町に引き返すチャンスが何度もありました。
町で彼を待っている女性もいました。しかしそのたびに言い訳を思いつき、砦にとどまり続けます。
砦には、そんな兵士たちが何人もいました。彼らはいつか敵が攻めてきて、一世一代の大活躍ができることを期待して、空しく人生の盛りを浪費しているのでした。
そこにあるのは、待ち続けたことを無駄にしたくないという気持ちかもしれません。
あるいは退屈な場所に適応した結果、新しい環境に飛び出すのがおっくうになっているのかもしれません。
もしかしたら、環境を変えたところでうだつのあがらない人生には変わりないとあきらめているのかもしれません。
ともあれ彼らは勤務を楽しんでいるようには思われないのに、愚痴りながらも砦から離れられないでいるのです。
■いつのまにか背後で門が閉まり引き返せない
そうこうするうちに、ドローゴは40代になりました。彼は自分が変わったとは思っていません。「時があまりにも速く過ぎ去ったので、心が老いる間がなかった」のです。
40代になっても50代になっても、気持ちは30代前半のままというのは、同世代からよく聞く話です。けれども心身は確実に衰えています。
ドローゴは若いころのように馬を乗り回したいと思わなくなり、階段を二段ずつ駆け上がる競争もしなくなった自分に気づきます。もちろん、中年だってやろうと思えばできるのです。でも、そんな気になれない。
これこそが、本書で幾度となく提示される「時の遁走」です。それは次のように描写されます。
そのときまで、彼は気楽な青春期を歩んできたのだった、その道は若者には無限につづくかに見えるし、また歳月はその道を軽やかな、しかしゆっくりとした足取りで過ぎて行くものだから、誰もそこからの旅立ちに気がつかないのだ。物珍しげにまわりを見ながら、のんびりと歩いて行く、急ぐ必要はさらさらない、後ろからせきたてる者もいなければ、先(さ)きで待っている者もない、仲間たちもしょっちゅう立ち止まってはふざけながら、のんきに道を行く。
だが、あるところまで来て、本能的に後ろを振り返ると、帰り道を閉ざすように、背後で格子門が閉まりかけている、そしてあたりの様子もなにか変わってしまっていることに気づく
そしていつのまにか背後で門が閉まり、決定的に引き返せなくなる。ついにはひとりぼっちになり、気づかぬまま通り過ぎた「いいこと」は、すでにはるか後方にあって、もう二度と取り戻せないのです。
■生きることは常に失い続けること
人生に遅すぎるということはない、と言い切りたいところですが、人生が無限に続くわけではないのは厳然たる事実です。やりたいこと、やめたいことがあるなら、すぐとりかかったほうがいい。
それなのに私たちは、年を取れば取るほど、習慣という鎖から抜け出しづらくなります。
とっくに冷めているのにだらだらと続けてしまう恋愛、違和感を覚えるようになっても切れない友人関係、いつか配偶者が変わってくれると信じて終わらせられない結婚生活、何か面白いことが起きているのではないかと期待して延々とスクロールしてしまうスマートフォン……。
引き返せない悲しみと孤独。生きることは常に失い続けることだと思い知る感傷の甘み。人生とはそのようなものだという諦念。
時代も国も定かではない辺境の砦という寓話的な舞台設定ではありますが、本書が描くのは生々しい人生の現実です。
本書を読んで、ぞっとして環境を今すぐ変えたくなる人もいるでしょう。
どこに行っても大して変わらないのだから、現状維持でいいと割り切れる人もいるでしょう。
筆者は「戦うなんて面倒臭いことをせずにお給料がもらえるなら、それでいいのでは……」と思ってしまいました。若いつもりの自分の中の「老い」と向き合える小説です。
『タタール人の砂漠』
ブッツァーティ、
脇功訳、岩波文庫、2013年
ディーノ・ブッツァーティ(1906―72)はイタリアの小説家。ミラノ大学法学部を卒業後、同市の「コッリエーレ・デッラ・セーラ」紙に入社。ジャーナリストとして活動するかたわら、創作活動を開始。1933年、長編処女作『山のバルナボ』で注目を集める。長編第三作『タタール人の砂漠』(1940)、短編集『七人の使者』(1942)など、幻想的で寓意性の高い作品を発表。その作風から「カフカの再来」を称され、これらの作品は、20世紀の幻想小説の古典と評されるように。晩年にはSF的な手法を用いた長編小説『偉大なる幻影』(1960)、現実のミラノを舞台にした長編小説『ある愛』(1963)などを発表。72年、癌のため65歳で死去。(編集部)
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堀越 英美(ほりこし・ひでみ)
文筆家
1973年生まれ。早稲田大学第一文学部卒。著書に『エモい古語辞典』(朝日出版社)、『女の子は本当にピンクが好きなのか』(河出文庫)、『不道徳お母さん講座』『モヤモヤしている女の子のための読書案内』(以上、河出書房新社)、『スゴ母列伝』(大和書房)、『紫式部は今日も憂鬱』(扶桑社)、『親切で世界を救えるか』(太田出版)、『ささる引用フレーズ辞典』(笠間書院)など、訳書に『世界は私たちのために作られていない』(東洋館出版社)、『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』(河出書房新社)、『ギタンジャリ・ラオ STEMで未来は変えられる』(くもん出版)、『「女の痛み」はなぜ無視されるのか?』(晶文社)などがある。
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(文筆家 堀越 英美)

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