1960年代から80年代前半にかけて、日本を代表するフォワードとしてサッカー界をけん引した釜本邦茂さんがこのほど亡くなった。81歳だった。
メキシコ五輪で得点王
釜本さんを「アジアのサッカー史上、最高のストライカー」と呼ぶと、もしかしたら韓国の方から「イングランドのプレミアリーグで8シーズン連続二ケタ得点のソン・フンミンの方が実績は上だ」というクレームがつくかもしれない。あるいはイランのファンから「国際Aマッチで109得点を挙げたアリ・ダエイを忘れていませんか」と茶々が入るかもしれない。
そもそもサッカーのストライカーとは何か。私なりに定義すれば、頑丈な体躯で最前線の中央に陣取り、ゴールを挙げることを最大の役目としている選手のことだ。釜本さんのプレースタイルはまさにストライカーそのもの。一方でソンは、サイドからの攻撃を得意としており、ストライカーというよりはウイングに近い選手だろう。
一方でダエイは、確かに正統派のストライカーと言える。Aマッチ109得点という実績は、2021年にポルトガルのスーパースター、クリスティアーノ・ロナウドに抜かれるまで、長く世界1位だったことには敬意を表したい。1996年のアジアカップで、イランが韓国を6対2で粉砕した試合をTV観戦したが、この試合でダエイは4得点を挙げ、神がかっていた。その翌年、日本のファンが「ジョホールバルの歓喜」として記憶しているフランスワールドカップ・アジア第3代表決定戦でもダエイは1得点を挙げ、日本にとって最大の脅威だった。
釜本さんのすごさを数字で表すと、日本リーグ(Jリーグの前身)での202得点、79アシストはもちろん、国際Aマッチでの得点数75も日本男子では歴代トップ(女子では澤穂希選手がAマッチで83得点を記録)。釜本さんの現役時代、国内リーグや国際Aマッチの試合数は現在より少なく、その中でこれだけの数字を残したのは大変なこと。そして何より、メキシコオリンピックで7得点を挙げ、得点王に輝いた実績が目を引く。ただ、オリンピックに出場するには、越えなければならない大きな壁があった。その時点で通算2勝7敗3分けと負け越している韓国が立ちはだかったのだ。
小雨の国立、3-3の激闘
メキシコオリンピックのアジア地区予選は、日本、韓国、台湾、南ベトナム、レバノン、フィリピンが参加して、67年9月から10月にかけて東京で集中開催された。1回戦総当たり形式で、1位の国のみがメキシコ行きの切符を手にする。日本と韓国はともに3連勝し、無傷のまま第4戦で激突した。
小雨の降る国立競技場でキックオフされたこの試合、日本は宮本(輝)と杉山のゴールで前半を2-0とリード。しかし後半に入ると韓国が反撃に転じ、後半半ばまでに同点に追いつく。ここで千両役者ぶりを発揮したのが釜本さん。
ところがそのわずか2分後、韓国は金基福が決めて再び同点に。その後は足の止まった日本を韓国が攻め立てる展開となり、終了直前、金が約25メートルのミドルシュート。「やられたか!」と覚悟した次の瞬間、ボールはクロスバーをたたいてピッチに跳ね返った。日本ゴールのクロスバーには、ボールの跡がはっきり残っていた。
当時小学6年生だった私は、テレビの前で日本代表を応援していたが、このシュートの後、逆転されるのではないかと見ていられなくなり、別室に逃げ込んでしまった。試合はこのまま3―3で終了したが、60年近いサッカー観戦歴で、途中で試合を正視できなくなったのは後にも先にもこの時だけ。この恐怖は、今も強烈な印象として残っている。
もし病に倒れていなかったら…
日本にとって、2点差を追いつかれての負けにも等しい引き分け。しかしフィリピン戦で、釜本さんのダブルハットトリック(6得点)などで15―0で大勝した貯金が物をいい、得失点差で韓国を上回って1位を確保。
しかし、好事魔多し。釜本さんは25歳になった直後の69年6月、ウイルス性肝炎を発症して長期離脱を余儀なくされた。同年11月に復帰し(復帰戦で見事な直接FKを決めたのをスタンド観戦し、感動したのを記憶している)、その後も長く日本のエースとして活躍したが、病気の影響か、メキシコ当時ほどのすごみを感じなかったのは、私だけだろうか。
釜本さんの訃報に接し、改めて思う。もし、金基福のシュートがもう少し低かったら、銅メダルも得点王もなかったのだろうか。もし肝炎を発症していなかったら、彼はどこまですごい選手になっていたのだろうか。人生は、そして歴史は、本当に紙一重である。