田家秀樹(以下、田家):こんばんは、「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは岡村靖幸さんの「少年サタデー」。4月1日発売の最新アルバム『操』収録曲です。テレビ『王様のブランチ』の主題歌でもありました。今月の前テーマはこの曲です。
今月2020年4月の特集は近藤雅信。史上最強A&Rプロデューサー。今はこの岡村靖幸さんの事務所、V4inc.の社長さんで、プロデューサー兼、ディレクター兼、マネージャー全てをおやりになっています。A&Rはアーティストアンドレパートリーという言葉の略ですね。レコード会社でアーティストの発掘や育成、それからマネージメント、楽曲の制作や宣伝全てに関わる人です。
近藤雅信(以下、近藤):こんばんは。よろしくお願いします。
田家:1979年4月にアルファレコードに入社されたところから始まってらっしゃるわけで、その時はどういうことをおやりになりたかったんでしょう?
近藤:子供の頃から音楽がとても好きで、色々な音楽を聴いていたんです。高校に入った時に、バンド活動を若干始めて。そうこうしているうちに『ニューミュージックマガジン』っていう雑誌を友達に教えてもらって、そこから周辺のことを学ぶようになったんですね。
田家:1977年にアルファミュージックがレコード会社を作って1979年にお入りになった。今月は、近藤さんにご自分のキャリアの中で出会われた方で忘れられない曲を選んでいただいております。1曲目、細野晴臣とイエロー・マジック・バンド、1978年の曲で「はらいそ」。
田家:1978年に発売になりました。アルバムのタイトル曲でもありますね。『トロピカルダンディー』『泰安洋行』と並んで細野さんの70年代トロピカルの3作目ということになります。そしてイエローマジックオーケストラの序章。
近藤:そうですね。アルファに入ったのも細野さんと仕事がしたかったのが大きな理由でしたし、細野さんが関わってらっしゃった仕事、小坂忠さんのアルバム『HORO』とか、雪村いづみさんの『スーパー・ジェネレイション』とか素晴らしい作品がいっぱいあったんで、そこに関わっていきたいという想いがあって入ったんですけど、最初は洋楽に回されたんですけどね。
田家:近藤さんが選ばれた2曲目、ブレッド&バターで1981年のシングル「あの頃のまま」。作詞作曲は呉田軽穂さん。アルバムは1979年6月に出た名盤『Late Late Summer』に収録されておりました。これはアルファに入った年ですもんね。
近藤:これはとても好きなレコードで、好きな曲ですね。
田家:最初は洋楽担当で入られたというお話でした。
近藤:海外からサンプル盤と称して20~30枚の輸入盤が送られてくるんです。それを聴いて、自分がいいなと思うレコードを洋楽の課長に相談する。50枚サンプルを輸入したいんですけどみたいな。
田家:邦楽担当にっていうのはご自分で希望されたんですか?
近藤:アルファは小さい会社で当時も百人もいませんでしたし、僕が入って半年後くらいに人事があったんですけど、宣伝部ができて。そこは他のレコード会社と違って洋楽も邦楽も一つの宣伝でやっていたんです。ポリスの宣伝やりながらブレッド&バターとかYMOとかサーカスもやるっていう。洋楽と邦楽の両方をやっていたんですよ。
田家:なるほどね。あの頃のプロモーターとして宣伝もした記憶がある?
近藤:この曲は聞いた途端すごく好きな曲だなと思って。プロデューサー有賀恒夫さんって方で。すごく丁寧な仕事される方で、ユーミンとは深い関係にある方ですし。
田家;歌い方を直した人ですもんね(笑)。
近藤:そうですね(笑)。その方がユーミンに「こういう曲書いて欲しいんだ」っていって彼女が書いたんですけど、この曲は本当にイケるなと思ったんですよ。ぶっちぎりのサクセスにはならなかったですけど、当時スマッシュヒットにはなったと思うんですけどね。
田家:スタンダードになっていますしね。社会人になったっていう感覚はありました? あの頃は社会人になるみたいなことがテーマになっていたんでしょうけど。
近藤:何と、アルファレコードは当時全員スーツ着用だったんですよ。最初の1、2年は僕もスーツを着ていました。『ニューミュージックマガジン』担当だったんですけど、スーツで敬愛してる中村とうようさんに、よろしくお願いしますって頭下げたら、「俺スーツ嫌いなんだよ」って言われちゃって。俺も好きで着ているんじゃないのに、みたいな(笑)。
田家:(笑)。この頃はブレッド&バターはまだ湘南にいたんでしょう? 湘南に打ち合わせに行く時もスーツ着ていくんですか?
近藤:いや、流石にその時は適当に理由つけてスーツ着ないで行きましたね。東京で打ち合わせしてもつまんないから、雑誌社の人たちと一緒に湘南で取材やりましょうって皆で行って、何誌かやった後にビールを飲むっていうのがすごい楽しみでした(笑)。でも徐々にアルファもスーツ主義から逸脱していって、自由になっていったんですよ。
田家:どんな風になっていったか、この後に詳しくお聴きしましょう(笑)。
田家:続いて3曲目です。SHEENA & THE ROKKETSの「YOU MAY DREAM」。1979年に出たシングルでアルバムは『真空パック』に入っておりました。作詞は柴山俊之さんとクリス・モスデル。作曲は鮎川誠さんと細野晴臣さん。プロデュースも細野さん。クリス・モスデルはYMOの「中国女」も作詞した人であった。この曲を選ばれた理由は?
近藤:僕がアルファに入ったのは大学5年の秋で、1978年の11月なんですよ。11月の末にエルヴィス・コステロが初来日公演をやったんですね。僕もすごくコステロが好きでPARCO劇場に観に行って、その時のオープニングアクトがSHEENA & THE ROKKETSだったんですよ。すごいカッコいいなと思って。翌年にSHEENA & THE ROKKETSがアルファでやることになって嬉しかったことは覚えていますね。高橋幸宏さんがコステロを観に来ていてSHEENA & THE ROKKETSを知って、細野さんに紹介したということらしいんですけど。
田家:じゃあ細野さんがプロデュースするよっていうことでアルファに来たんですか?
近藤:そうですね。鮎川さんとSHEENAさんの組み合わせも良かったし、なんとか売りたいなと思いました。
田家:SHEENA & THE ROKKETSと当時の細野さんをはじめとするYMOグループって今のイメージとなかなか結びつかないですね。
近藤:よくそう言われますし、考えたりもするんですけど、細野さんが去年に森ミュージアムでやった展覧会があったじゃないですか。風呂敷の中には色々なものがありましたよね。ジミ・ヘンドリックスとかロックンロールのヒストリーがちゃんと体の中に入っている人だから。バッファロー・スプリングフィールド的というか、ジェイムス・テイラーとかそういった影響が濃いのかなと思うんですけど、細野さんの中にはロックンロールもあったし、洒脱なエッセンスのあるSHEENA & THE ROKKETSとの組み合わせはとても新鮮でしたし、楽しかったですね。
田家:キーワードは洒脱だった。SHEENA & THE ROKKETSは、この後に出たアルバム『Channel Good』も細野さんと幸宏さんのプロデュースで、それまでのSHEENA & THE ROKKETSにない要素が加わったとしたらどんなものでしょう?
近藤:SHEENA & THE ROKKETSっていうグループ自体すごくプリミティブですし、それがすごい良かった。ロックンロールをやってるミュージシャンにとってすごく大事なポイントですから。そこにある種の今日的な要素を加えることを幸宏さんと細野さんはされたんじゃないかなと思います。ビジュアルの部分もそうですし、ポップス的な要素もあるでしょうし、ニューウェーブ的なアレンジのエッセンスもあるでしょうし。そういう要素を持ち込んでいったんでしょうね。本質的な部分は変わってないけど、見せ方や聴かせ方が変わったという風に思います。
田家:シンプルなロックンロールをやる人たちだから、それが活きたと。アルファって他にこういうロックバンドはいなかったんですか?
近藤:当時『ROCK STEADY』っていう雑誌があって、そこでオーディションをよくやっていたんですよ。原宿のラ・フォーレで決戦大会というのがあって見に行ったんですけど、そこでとてもいいロックバンド見つけたんですよ、THE MODSなんですけど。仮契約してアルファのスタジオでデモも録ったんですけどディレクターと相性が悪かったんですよ。
田家:それでEPICレコードに行っちゃったんだ。
田家:近藤さんが選ばれた4曲目、吉田美奈子「LIGHTN UP」。1982年9月に発売になりました。9枚目のアルバム『LIGHTN UP』のタイトル曲。この曲を選ばれた理由は?
近藤:この曲も大好きな曲だっていう理由だけですけど(笑)。この感じって日本のミュージシャンでなかなか出せないなと思っていて。ある種の洗練と泥臭さの要素をブラックミュージックって色々な角度から楽しむことができるんです。ただ、あるパーツを引っ張ることはできるんですけど、全部を飲み込んで自分の音楽にできる人ってなかなかいないなと思っていて。吉田美奈子さんは『扉の冬』っていうレコードでデビューして、当時はローラ・ニーロ的な表現で、それは松本隆さんプロデュースでデビューされたんですけど、その時から黒い要素ってあって、それがすごく結実した1つがこの作品じゃないかなと思っています。
田家:このアルバムのレコーディングは東京とニューヨークで行われました。
近藤:当時のメンツもだいぶお亡くなりになられてしまいましたが、生田さんっていうYMOの初代マネージャーの方がコーディネーションされていて、素晴らしいメンツでした。こんな人が入ってるんだってくらい美奈子さんの存在が強力で。美奈子さんがメインでザ・ブレッカー・ブラザーズとか色々な人たちが参加しているっていう美しい形だなと思います。この人が入っているんだっていうことに耳が行きがちですけど、この作品の中ではあくまでも吉田美奈子ってういう存在が立っていて、海外の名だたるミュージシャンが集まったっていう。
田家:YMOも日本よりも海外での評判が先になっていたりしますし、いわゆる日本と外国との距離感が一番当時近かったのがアルファだったのかなって思いましたが。
近藤:たぶんアルファっていう会社より村井さんと川添さんのコネクション、社交術、モノの考え方であったり、アルファとA&Mレコードの契約で、日本のアーティストをA&Mレコードを通して海外で出そうとかって情報が入ってきたり、そういうところからでしょうね。
田家:そこに惹かれていたっていうのも近藤さんとしてはありました?
近藤:あまり意識してなかったんですけど、その後色々な会社に行った時に思ったというか。アルファって港区を相手にするようなレコード会社のセンスがあったから。港区の人が喜んでくれればいいんじゃないのっていう(笑)。逆にそういう意識も強かったし、大手の会社は人も多かったし所属アーティスト数も多かったし、毎月毎月物凄い強力なラインナップだったりもするので。そういったものに対していいなあって思ったことはあるかもしれません。
田家:このアルバムはそういう日本の業界の中では、亀渕さんとかとうようさんとかお歴々の人たちの反応はどうだったんですか?
近藤:亀渕さんやとうようさんには意見を聞いていないんですけど、当時で言えば『アドリブ』という雑誌では評価されましたし、ジャズ、フュージョンの世界では大きな反応があったと思いますし、FMフレンドリーなアルバムということでよくラジオでかけていただきました。
田家:それは近藤さんの中で、そういう媒体がこのアルバムには向いているだろうっていうプランニングもあって?
近藤:それもあったし、引きが強いメディアの中で、良いメディアと恋愛できるところはどこかなと思ってそういう形になりました。
田家:吉田美奈子さんのアルバムの中ではこの時期が一番AOR、フュージョンっぽい時期ということになるんでしょうか。
近藤:この作品もそうですし、RVC時代に出ていた山下達郎さんがプロデュースした『TWILIGHT ZONE』とかもそういうエッセンスあると思います。
田家:でもこんなにファルセットを使った曲って無くなってきていますもんね。もっとゴスペルっぽいっていうか太くなっているというか。
近藤:そうかもしれないですね。とにかく音がリッチですよね。聴き惚れちゃう。
田家:このアルバムは2018年にはアナログ盤として復刻されたようですね。アナログ盤で聴くとやっぱ違うんでしょうねえ。
近藤:僕はアナログ派なので未だにアルファ時代のアナログ聴いていますけどね。
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田家:続いて5曲目、YMOで「君に、胸キュン。」。1983年3月に発売になりました。作詞は松本隆さん、作曲はYMO。これが選ばれているのは、ちょっと思いがけなくもありました。
近藤:これは忘れられない曲ですね。1982~1984年くらいの頃、YMOの3人は歌謡曲フィールドでとても活躍されていて、目の前で3人が歌謡曲のポップスを作る様子をずっと見ていたんですよ。うちの会社も作って欲しいなってずっと思っていて(笑)。松田聖子さんの「ガラスの林檎」であったり、「ハイスクールララバイ」であったりみたいなアイドルをアルファがやっていたわけじゃないし、歌謡曲を一生懸命やっていたわけでもないですから、なかなかそういう機会がなかったんですよね。せっかくそういう風にYMOの3人が活動しているのにアルファではないから、歌謡曲フィールドのノウハウを使って、それを飲み込んでやってみるっていうことを自分がやってみたくて。これが出来たときにはとても嬉しかったですね。
田家:カネボウのCMソングでしたが、たまたまオファーがあったんでしょうか。「胸キュン。」っていうのはCMのキャッチフレーズでしたよね。
近藤:これはCMが決まってから作った曲です。「君に、胸キュン。」は当時のカネボウのキャンペーンのコピーで、その時代はレコード会社でのタイアップ時代の中でも化粧品のタイアップは資生堂、カネボウの2社がチャートでデッドヒートを繰り返しておりまして。
田家:松本さんの特集をした時に、彼は、これは、細野さんの方から松本さんに「1位になりたいんだよ」という話をされたって仰ってましたけどね。
近藤:そうかもしれません。僕は現場にいなかったのでわからないんですけど、最後にちょっとカラフルなことをしてみようかっていう。3人ともシャイですし、売れたら嬉しいかと思ってくれると思うんですけど、どうしても1位をとりたいという感じじゃなかったと思います。
田家:松田聖子さんの「天国のキッス」も松本・細野コンビの曲が1位で、「君に、胸キュン。」は2位だったんですよ。松本さん曰く、その辺が細野さんの甘いところなんだよって。
近藤:あははは。そうかもしれませんねえ。1位と2位じゃちょっと違うんだよなあ。
田家:ということもありました。YMOは1982年の段階で解散が決まっていたんだけど、レコード会社の意向もあって1983年も活動したという情報がありますが。
近藤:僕の昔の上司が言っていましたけど、1980年台前半は近藤の人生はYMOだったって。最近そういうことをインタビューで読んで、まあそうだったなあって思います。人生そのものですよ、それくらい強かったし。色々な思いが交差しましたよ。
田家:でもやっぱり続いてほしかった?
近藤:続いて欲しかったけど、YMOってバンドというよりはプロジェクトというか集まりみたいな感じだと考えていた方がいいかもしれない。バンドっぽいところもあるし。不思議な存在なんで。でもここ10年くらい時折やられたりしているから、今考えるとああいう時期があって今があるんだなと思いますけどね。
田家:近藤さんは今、岡村靖幸さんを全面的にプロデュースされていますが、YMOで経験したことは岡村さんにも活きたり繋がったりしていますか?
近藤:YMOで経験したことは、その後の仕事全部に結びついていると思います。当時は原宿にカルデサックっていうレストランがあって、よくそこに食事に行ったりしていたんですけど、そこで色々な人に出会うんですよ。糸井重里さん、仲畑貴志さんとか、鋤田正義さんとか。本当に多彩な方々との交流が生まれて、そこにムーンライダーズとかプラスチックスとかミュージシャンもいて、会話の中でアイディアが生まれたり。側から見ていて、こういう風に物事って生まれていくんだなって思ったし、作品を作るときにコンセプトを考えて、ジャケットは誰だ、カメラマンはヘアメイクは誰にするか考える作品の作り方とか、全部3人に教えてもらったと思います。そのフォーマットは今でも変わってないです。
田家:今流れているのは高橋幸宏さんで「1%の関係」。近藤さんの選ばれた6曲目です。1990年2月に発売されたシングルですね。これは発売が東芝EMIで、作詞が鈴木慶一さんですね。この曲を選ばれた理由は?
近藤:AORブームってあったじゃないですか。何事もそうなんですけど、ものすごく良いものと厳しいかもというものがAORの商品として流通していくことがある中で、きちんとしたAORをやろうと思って作ってもらった1曲ですね。
田家:これは東芝EMIになってからですね。近藤さんはアルファはいつまでにいらっしゃったんでしたっけ?
近藤:1985年の6月いっぱいまでだったと思います。7月末から東芝EMIだったと思います。
田家:その頃にアルファが変わってきたのと近藤さんがお辞めになったのはリンクしている?
近藤:そうですね。村井さんがいるいないっていうのも大きかったし、YMOも終わったし、もう一回自分を0のところにおいてやろうかなと思ったんでしょうね。
田家:東芝EMIはヘッドハンティングだったと伺っております。
近藤:厳密にはヘッドハンティングではないと思います。辞めるって決まったら周りの方々が心配してくださって、その中であった話で東芝EMIの石坂敬一さんに会わないかっていう話があって、面接したという経緯です。
田家:石坂さんとそれまでもお付き合いがあったわけでもなく?
近藤:付き合いはなかったですね、ただ村井さんと石坂さんは仲が良かったので。アルファのパーティにたまにいらしたことがあって、そこで1回ご挨拶はしたことがありますけど、親しくさせていただいたわけじゃないですね。
田家:石坂さんの印象はどうだったんですか?
近藤:洋楽ディレクターのスーパースターでしたからね。ビートルズのディレクターであり、T-REX、ピンクフロイドとか、コックニー・レベル、シルヴァーヘッドとか色々やっていたイメージと、日本のアーティストだとクリエーションとか角川映画。一貫してぶっとい仕事しているイメージでしたね。
田家:東芝にイーストワールドっていう邦楽ロックレーベルがあって、そこに行くというお話ではなかったんですか。
近藤:いや、最初宣伝部に入ったんですけど、歌謡曲からロックまで全部を一つの宣伝部でやっていました。本田美奈子もやっていたし、西村知美とか浅川マキさんとかBOØWYとかRCサクセションとか色々。
田家:この話の続きは来週ですね。YMOの3人の中でも幸宏さんの役割ってどんなものだったんでしょう?
近藤:あの3人がよく集まったなって思いますけどね(笑)。幸宏さんはどういう役割かとよく聞かれますけど、ある種のボーカリストとしてとても優れている。ポップスということで言うと、ある種の洒脱さを持った物の考え方を持ち込んだ。あとはYMOにビジュアルのセンスを持ち込んだ人。「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」の赤い人民服のビジュアルは、幸宏さんのBricksっていう当時やっていたブランドのデザインした服なんですけど、あれのモチーフは昭和初期のスキー服なんですよね。そういったものをもたらしたのも幸宏さんなんですよね。
田家:イメージプロデューサー的な部分もあったと。
田家:「J-POP LEGEND FORUM」近藤雅信Part1。史上最強現役A&Rプロデューサー、株式会社V4Incの代表取締役である近藤雅信さんの軌跡を辿る1ヶ月。今週は1970~1980年代のアルファレコード時代のお話をお聴きしました。流れているのは竹内まりやさんの後テーマ「静かな伝説(レジェンド)」です。79年入社ということで、今年で42周年ですね。
近藤:自覚もなくそんなに経ってしまいました。
田家:レコード会社でヒットにたくさん携わられた方はたくさんいらっしゃいますが、経営者に回らず今もA&Rとして活躍されているのは近藤さんだけですよね。
近藤:一時期は経営者っぽくなりましたけどね。なんか外れちゃったんだよなあ。
田家:やっぱりメーカーじゃなきゃできないことと、いたらできないことの両方あるんでしょうからね。
近藤:あとは時代も変わって、レコード会社も大変だと思うんですよ。昔はプロモーションも決まったメディア相手だったけど、今は色々なメディアがあるし、音楽のディストリビューションの方法も配信からストリーミングから色々な会社があるし。会社でも全部パソコンでやるじゃないですか。僕はパソコンがあまり得意じゃないんですよ。
田家:数学科、理系出身なのに(笑)。
近藤:四六時中パソコンに向かうっていうのはね、体質的にだめなんですよ。
田家:音楽はパソコンの中だけじゃないぞ! みたいな?
近藤:うーん、レコーディングの仕方も変わってきてるしそういう風になりつつあるんですけど。僕はアナログレコード、CDの時代に生きてきたのでなかなかね、きついんですよ(笑)。
田家:自分の関わった曲は聴き直したり、頭に入ったりしているものですか?
近藤:と言いつつも、最近はApple Musicで自分の関わった曲のプレイリストを作って聴いたりしてるんですけど、いつも無意識に残る作品を作りたいと思っていたので。今改めて聴いてみてもみんな良いじゃんって思ったりしますけどね。
田家:その辺も来週確かめていけたらと思います。

自身が選曲した細野晴臣『はらいそ』を持つ近藤雅信と岡村靖幸の新作『操』を持つ田家秀樹
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソナリティとして活躍中。
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「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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