日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2023年1月の特集は「伊東ゆかりステージデビュー70周年」。
1947年生まれ、6歳のときに米軍の下士官クラブのステージで歌い始め、11歳でレコードデビュー。その後、カバーポップス、カンツォーネ、歌謡曲、J-ポップ、シティポップスなど時代の流行に乗ってヒット曲を放ち続けてきた伊東ゆかりの軌跡を5週間に渡って辿る。最終週となるパート5では、2022年11月に発売された6枚組のオールタイム・シングル・コレクション『POPS QUEEN』のDisc 4と5と6から伊東が自選した楽曲とともに1970年以降を振り返る。

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伊東ゆかりさんをお迎えして70年間を辿ってきましたが、今週は5週目、最終週ですね。1週目に自叙伝ということでDISC1、2、3の中から曲を選んでいただいたんですが、今週はDISC4、5、6から選んでいただいた曲をお聴きいただきます。1週目は1969年、1970年という時代の変わり目で話が終わりました。
69年の紅白歌合戦の司会を行った。国民的歌手として頂点を極めたように見えた。その先が今週ですね。というわけで最終週です。伊東ゆかりさん5回目の登場です。よろしくお願いします。


伊東:よろしくお願いいたします。

田家:1週目の最後は1969年の紅白歌合戦の司会の話で終わって、その後に70年代に転機が訪れますって言ってしまったんですが。事務所を独立したり。

伊東:あれは父が心配して、渡辺プロっていう大きな組織から抜けなくちゃいけないと思ったらしいんですけど、私はあまり抜けたくなかったんですけどね。父がすごく一生懸命、今のままじゃダメだみたいな感じだったので。

田家:このオールタイム・シングル・コレクションにはブックレットがついておりまして、ヒストリーが載っております。


伊東:中崎(あゆむ)さんね。もうびっくりしちゃった。 えー、なんでこんなことまで知ってるの!?って。この間大阪行った時に中崎さんとお会いしたんですよ。結構若い方でびっくりしました。

田家:いや、このヒストリーはすごかったですね。


伊東:図書館まで行って調べたらしいです。その時に懐かしい週刊誌の記事のコピーをいただきまして。娘が生まれた時の写真とか。あと、1番下の弟とか懐かしく読ませてもらいました。

田家:ご本人も忘れているような古いことをよく調べて。

伊東:あと、アメリカ軍のキャンプで歌ってた頃、そういえばずっと密着で写真撮ってたなっていうのも入ってましたね。
夜遅く明大前の駅で父と電車を待ってる写真とかアメリカ軍のキャンプへ移動するバスの中とか、父が髪を結ってるところとか、懐かしい写真が出てきました。

田家:伊東ゆかりさんが選ばれた今日の1曲目、1970年10月発売の「さすらい」。作詞が吉田央さんで、作曲が西あきらさん。西あきらさんって方はどなただろうと思ったら、あの市川昭介さんなんですね。都はるみさんを育てあげた。吉田さんはちあきなおみさんの「喝采」を出す前の時期の曲ですね。


伊東:この「さすらい」はいい加減に歌っていたわけじゃないんですけど、テレビの時に「さすらい」を歌ってる私を見て、吉田央先生から電話がかかってきて「ゆかりさん、僕たち作詞家はね、いい加減に作っているわけじゃないから、歌う時に心を込めて歌ってください」って言われた。詞を大事に歌ってくださいって言われたんです。

田家:どう思われたんですか、それ。

伊東:その頃は詞に対してメロディの一部だと思ってました。だから歌っているのに、あまりはっきり聞こえなかったんでしょうね。私もいい加減に歌ってたわけじゃないんでしょうけど、あまり心が入ってなかったのかもしれない。ただ口先で歌ってるだけって聞こえたのかな。それからですよね。詞を大切にっていうか、お客様に歌詞をはっきり聞こえるように歌うのを意識しましたね。

田家:それは先週まで色々お話した洋楽、向こうのものを日本語に直して歌うところから始められたっていうことと多少影響しているんですか。

伊東:それもありますし、後に『サウンド・イン”S”』っていう番組を私やらせてもらっていたんですけど、英語でしか歌わせてくれなかったんですよね。何回か続けていくうちにディレクターの人に「ゆかりの歌は英語だと響くんだけど、日本語だとなんか響かないな」って言われて。それもショックでしたよ。日本人なのに日本語の歌詞で歌って響かないってのはどういうこと?みたいな。それで、とにかく英語の歌でも、これからは日本語に直してもらって歌おうと思ったんです。

田家: 吉田央さんまだお元気でらっしゃいますからね。今、どんな風に思ってらっしゃるでしょう。

伊東:うふふふ。怖っ(笑)。

田家:今日の2曲目、1971年9月発売「Green Ginger Flying」。歌い手のクレジットは、伊東ゆかりとグリーン・ジンジャー。『11PM』のオープニングのスキャットを歌ってたスターゲイザーズの岡崎広志さん、大瀧詠一さんでもおなじみシンガーズ・スリーの伊集加代子さん、そして作曲・編曲家は東海林修さん。すごいメンバーですね。

伊東:あと、プロデュースが村井邦彦さんと川添象郎さん。全部英語で。川添さんに英語の発音なんか教わったんですけど。

田家:この曲は1971年7月に出た企画アルバム『LOVE』の中の曲で、ジョン・レノンとかジョージ・ハリスン、カーペンターズ、エルトン・ジョンの曲を歌っている。

伊東:1番苦労したのがエルトン・ジョンの「Your Song」。まあ難しい英語だし、早口だし、1番参りました。確かまだ「Your Song」が日本で流行ってなかったんじゃないかな。私は全然知らなくって。まあ、早口で早口で。

田家:村井さんと川添さんとはどういう流れで一緒にやられることになったんですか?

伊東:私にそういうこと聞かれても困っちゃうんだけど、とにかく村井邦彦さんと川添さんと東海林先生と、みんなで笑いながら作ってましたよ、このアルバムは。だから、みんな楽しみながら作ってたんじゃないですか。

田家:やっぱり洋楽をちゃんと作りたい、と。

伊東:なんて言うんだろう。押し付けなんじゃなくて、自分たちのやりたいサウンドとアレンジと、そういう音作り。とにかくすごく明るかったですよ、レコーディングしている時。

田家:そういう人たちが集まって、歌い手は伊東ゆかりだよねってなったんでしょうね。

伊東:そうなんですかね。ただ伊集さんなんかとコーラスで一緒に歌うところもあって。宮川先生に「あなたの声は右から左から流れちゃうからパンチのある歌い方を」って言われて。ハモるというか声がふぁーっと交わるっていうのは、右から左に流れちゃう声がみんなとこう混じり合って良かったのかもしれない。

田家:右から左に流れるからイージリスニング、AOR的な声になってるっていう。

伊東:うん。このアルバムって何かしながら聴けるアルバムじゃないかなと思うんですね。私も何かしながら聴く方が好きなので。自分の歌い方も何かしながら聴けるような歌い方をしたいなと思っているので。面白かったですね、このアルバム作りは。

田家:発売はコロムビアの洋楽レーベルでした。で、アルバム制作中の7月に結婚されたわけですね。

伊東:このアルバム制作中だったんですか。あらあら(笑)。7月5日に結婚しました。

田家:24歳でした。今日の3曲目です。1980年2月発売「もう一度」。こちらの詞曲は、なんと松山千春さん。

田家:今日の3曲目、1980年2月発売「もう一度」。曲を聴いてるだけでは、詞曲が千春さんだって思わないでしょうね。

伊東:でも、松山千春さんもご自身でも歌ってますもんね。この曲を出した時に北海道行って松山さんとはお会いしてお話しました。

田家:どうでした?

伊東:フォークシンガーの方とお話するのは初めてだったんです。あまり人と喋ったりするのは得意な方じゃないし、こんな感じでちょっと無愛想なので、どういう話をしたらいいのかなって。松山さんの方から色々気遣ってくださってね。北海道ですから色んなところ案内してくださったりして。

田家:このブックレットのヒストリーの中に1972から1977という項目がありまして。出産、離婚、波乱の日々。

伊東:あははは。波乱万丈(笑)。本人はそんなに波乱万丈でもなかったけど。結婚して子供ができて、3カ月ぐらい経ってからかな、とにかく結婚したら歌を辞めると思ってましたので。子供が生まれて、別に引退しますとかは言ってないけれど、これでホームドラマみたいな生活ができると思っていたんですけれども、ある日突然に赤紙が来まして。それはなにかというと、うちの父の税金の未払いが発覚しまして。父のところに連絡しても来ないもんだから、実の娘の私のとこに税務所から来たんでしょうね、ある日、突然差し押さえが来たんですよ。それで佐川(満男)さん、旦那様に払っていただくことは大変失礼だと思いまして、当時ある事務所の社長に相談したら、「よし、ゆかりがその気なら、お前1年間キャバレーできるか?」と。「やります」て言って、1年間ドワーっとキャバレーをやって未払いの税金をお返ししました。子供が3カ月だったもんですから、母の方に預けてやりましたね。あの頃のパワーはすごかったなと思うんですけど、キャバレーっていう歌う場所がありましたからね、あの頃。

田家:キャバレーはそんなに縁がなかった?

伊東:いや、むしろキャバレーは好きじゃなかったんですよ。お客さんがすごく近いじゃない? あまりニコニコして歌わない私が。アメリカ軍のキャンプのとは違って独特の雰囲気ですから。むしろキャバレーというのを避けてましたよね。だけど、あの頃やっぱりキャバレーは1番お金になった。それで1年間あっちこっちのキャバレーを周りました。

田家:すごいなあ。さっきの「Green Ginger Flying」から「もう一度」までの間にシングルを18枚出してる。そういうことがありながら、リリースはコンスタントに行われていた。

伊東:でも売れた記憶はないですけどね。うふふふふ。

田家:(笑)。で、その間に離婚をされてしまってる。

伊東:キャバレーを回ってる時に、結婚したら歌を辞められるだろうと思ったんですけど、なんだか歌うことが楽しくなっちゃったんですね。自分って仕事するの好きみたいみたいな感じで。で、終わってから佐川さんに「私、ちょっと仕事をしたい」と。両立するから、子供のこともちゃんとするからっていうんでまず仕事をさせてもらいました。

強がり / 伊東ゆかり

田家:今日の4曲目、1981年2月発売「強がり」。作詞がなかにし礼さんで、作曲の林哲司さん。林さんは79年に松原みきさんの「真夜中のドア~Stay With Me」を出した後ですね。

伊東:これは『もういちど春』っていうドラマの主題歌だったんですけど、アレンジが好きです。また好きなのが、自分の声で全部多重録音をしてる。コーラスから全部。よくやったなと思って。テンポも好きだし、こういう歌があったんだわと思って。

田家:この82年のアルバム『MISTY HOUR』は全曲林哲司さんのプロデュースで。

伊東:はい。この間、ラジオで久しぶりに林哲司さんとお会いしました。

田家:わかり合えるものがありました?

伊東:相変わらず可愛らしい顔してましたね。坊っちゃんみたいな顔してました。

田家:そのアルバムも、是非機会があればということで。

伊東:聴いてみてください。

田家:伊東ゆかりさんが選ばれた次の曲は、まさに自叙伝という選曲であります。非売品だったんですね、1970年の曲「Oh!! Gentle Life」。

Oh!! Gentle Life / 伊東ゆかり

田家:こういう流れできていきたいと選曲のリストをいただいた時に、え、この曲が入ってるんだと思った1曲でもありました。1970年にCMで流れた曲「Oh!! Gentle Life」。

伊東:結婚したばっかりの時に、このコマーシャルの依頼をいただいたんじゃないかな。ティッシュペーパーのCMだったんですけど、仲良くしてくれみたいな。私はわざと作るのって好きくなくって。それがとっても嫌でしたね。このCMの撮影のときは。

田家:本当にもうCMですから、誰が見てもベタベタして仲良いみたいな。

伊東:そうそう。そうじゃなきゃいけないんだけれども。仲が悪かったわけじゃないですよ。家庭内のことまで、なんでこんなに見せつけなきゃいけないの?みたいな。「そこで頬にチューして」みたいなこと言われて、ええ、なんでこんなに見せなきゃいけないのみたいな。

田家:それは正しい反抗ですね(笑)。

伊東:「小指の想い出」のときの話みたいですね(笑)。

田家:今日の6曲目、1985年に発売になった「1990年」。詞曲を書いたのは吉屋潤さん、日本語詞が岡田冨美子さん。

伊東:吉屋潤さんはアメリカ軍のキャンプで歌っていた頃、サックス奏者で、ソロでサックスが兵隊さんたちに喜ばれた。その頃から父とも親しくて。

田家:1927年生まれで、韓国のサックス奏者で作詞作曲家。

 伊東:韓国の音楽界の理事長もやっていたのかな。その関係で韓国でも日本語が解禁になるというので、ディナーショーをセッティングしてくださって。けれども、ラングーンのテロがあって、そのお話がなくなっちゃったんですよ。でもディナーショーも切符を売っちゃってるし、なんとかできないかってことで一応行ったんですけど、ゆかりさん「1990年」を韓国語で歌ってくれないかって吉屋先生に言われて。韓国語を一生懸命、もう歌詞を見てもいいからって言うので、「1990年」を韓国語で歌いました。

田家:小さい時に米軍キャンプを一緒に回ってた大人の方だったわけでしょ? その方とそういう風に出会ってレコーディングするっていうのは、かなり運命的なものって言うんでしょうかね。

伊東:人と人との巡り合いっていうか、関かり合いっていうのは、面白いもんっていったら変ですけど、いろんなところで繋がってるんだなと思いますよね。

田家:米軍キャンプを回ってたミュージシャンの中に韓国の方がいたんだっていうのも。

伊東:その頃は別に韓国の人とかそんなことは思いませんでした。ただ父と親しくしていたんで。父は大人が話してるとこに私なんかが割り込んでくるのが嫌いな人だったから。ただ、吉屋潤さんと父が親しくしてたっていうことだけですね。

田家:お父様はこの「1990年」はどんなふうにおっしゃってたんですか。

伊東:父はあまり褒めない人だから、私の歌に対して。別に何にも言いませんでした。あまりにも声がおかしいとか、そういう時だけ「なんだあの歌は」とか。ただ、父が亡くなる前の日に「お前は一生懸命よく働いてくれたな、感謝するよ」って言ってくれたのが褒め言葉ですかね。最後に。あとはもう文句しか言ってない(笑)。密かにコンサートに来てて、後でぱっと楽屋に来たり、うちへ帰ってから電話が来たりして。

田家:職業的ミュージシャンのプロ根性というのが、お父様によって叩き込まれたのかもしれません。

伊東 でも「1990年」はね、いいなと思う。今度、コンサートでもこの歌入れてみようかなと思ってます。

田家:ゆかりさんは1990年代をどのように迎えたのかなと思いながら、次の曲をお送りしようと思います。

倶楽部”ゆめみーな” / 伊東ゆかり

田家:今日の7曲目、1999年10月発売「倶楽部”ゆめみーな”」。これはアルバム『Stage Doors』に入っていました。

伊東:私のコンサートのオープニングの曲です。ずーっと。

田家:「倶楽部”ゆめみーな”」は、この6枚組のオールタイム・シングル・コレクションのDISC6の1曲目になってます。作詞・山川啓介さん、作曲・前田憲男。1曲目用に書いてほしいと?

伊東:オープニングの曲が欲しいということで書いてくださいました。

田家:ご自分のライブの選曲とか、そういうのもやってらっしゃる?

伊東:山川啓介先生が全部選んでくれて。山川先生と打ち合わせするときには、「ゆかりさんと好きくないタイムをやりましょう!」って。先生が出してくれる曲を、この歌好きくない、好きくない、うーん、これは好きくなくもないかな?みたいな、そういう曲を選んでくれます。選んでくれる曲、大体好きくないって曲が多くて。でも山川先生が、これは絶対合うと思うから歌ってっていうので、わかりましたっていう時もあるし。

田家:好きくない曲に、共通点はあるんですか、

伊東:私の好きくない曲ですか? 不得意なのは早口な歌詞のついた曲。それとアップテンポの曲。だから、「ゆかりちゃんに任しとくと、みんなバラードっぽい曲で暗くなっちゃうんだよな」って。ですから明るい曲はあまり好きじゃないかもしれない。明るい曲っていうかアップテンポのリズムっぽい曲はあまり好きくないですね。

田家:山川啓介さんと前田憲男さんのコンビは、この番組で森山良子さんの特集を1カ月やったんですけど、この2人ですもんね。ゆかりさんと森山良子さんは年齢的にも近いわけですけど、同世代で気になったり、意識したり、尊敬したりみたいな人はいらっしゃるんですか。

伊東:私はどっちかっていうと人様のステージは見に行かない。どうしてかっていうと、自分と比較しちゃうから、次歌うときに自信がなくなっちゃう。だから、日本のポップス系の歌手の方の歌とかは聴きません。自分の出てるテレビとかも観ない。今日、園まりさんから電話がかかってきて、観なきゃダメよとかって言ってたんだけど、「嫌なの、私は観ないの、あらばっかり目立つから」って言って電話切ったんです(笑)。

田家:そういう中で、DISC6にはさっきデュエットをお聴きいただいた佐川満男さんとの復縁シングルという風に言っちゃっていいのかな?

伊東:何、それ(笑)。「かんにんしてや」は、いい曲ですよ。いい曲ですけれども、この曲をレコーディングした時は、別れたばっかりではないですけど、すっとレコーディングするのはちょっと嫌でしたね。今なら歌えますけど。

田家:そういう曲が入っていて、次の曲が入っていたりしたので、今月のタイトルを自叙伝という風につけさせていただいたんですが、「マイ・ハピネス」。

マイ・ハピネス / 伊東ゆかりwith 宙美

田家:2007年のアルバム『プレミアム・ベスト』の中に入っておりました。なんとコニー・フランシスのカバーで、訳詞が山川啓介さん。

伊東:アレンジが前田憲男先生です。一緒に歌ってるのが私の娘の宙美(ひろみ)と申します。

田家:もうまさに自叙伝ならではの曲になってますね。これは、一緒に歌おうっておっしゃったんですか?

伊東:いえ、娘が私の知らない間にうちの前の社長のところにデモテープ持ってって、歌手になりたいと。私が知らない間にそんなことしてたみたいで、びっくり仰天でした。できれば私が経験してない普通の結婚をして、赤ちゃん生まれて、私は孫を抱きたかったと。そういう生活をしてほしかったんですけど、まあ、親の思うようにはいきませんわね。あははは。もう孫は諦めました。

田家:歌うのが嫌だと思ってた若い頃があった母親の娘さんが、歌いたいと言っている。

伊東:まあ、佐川さんも歌手ですし、私も歌手ですからね。どこで歌い手になりたいと思ったんでしょうかね。

田家:1958年コニー・フランシスが歌った65年前にですね、伊東ゆかりさんはハピネスということについて考えたことがおありだったでしょうか? 私の幸福。

伊東:いや、私の幸福は歌をやめることしか考えてなかったんじゃない(笑)? あの頃は。

田家:この曲は、とっても幸せそうな2人にも思えますもんね。

伊東:ハモるっていうのは、とにかく私たち好きなもんですから。気持ちいいですよ、ハモると。声も似てますしね。今も「~デュオで親子でライバルで~」でって山川啓介先生が書いてくださったコンサートなんですけど、コロナで延期延期とかなって皆さんにも行ける機会が少なくなってしまいました。私が突然声が出なくなっちゃった時があって、娘が色々助けてくれて「小指の想い出」「恋のしずく」を影マイクで歌ってくれました。

田家:いい話ですね。

伊東:どこで覚えたのかなと思ったんですけど。あの時は助かりましたね。もう娘に文句言うのやめようと思いましたが、もうそれは忘れました。ふふふふ。

田家: やはりマイ・ハピネスですね。この6枚組のシングルコレクションは、136曲目が佐川満男さんとの「かんにんしてや」で、137曲目が「マイ・ハピネス」で、138曲目が矢野顕子さんが書いた「夜の旅」で終わっていたんですが、この番組の最後の曲に選ばれたのは、違う曲でした。133曲目の「早く抱いて」。

田家:1カ月間の最後の曲は、2019年発売「早く抱いて」。映画『火口のふたり』の主題歌で、詞曲を書いたのが下田逸郎さん。

伊東:これ賞をいただいたんですよね(映画賞「第93回キネマ旬報ベスト・テン」1位)。結構びっくりした映画でしたけど。

田家:でも、この曲評判いいでしょ?

伊東:みんな好きって言いますね。

田家:ちょっと今までと違うものがありながら、でも伊東ゆかりさんだなって思うところもあったりして、

伊東:この曲をレコーディングしたのいつだったのかしらね? 私には全然記憶になかったんですよ。それでお友達から「ゆかりちゃん、すごくいい歌、歌ってるわね?」って言って聞かせてもらったの。

田家:ご自分でも、やっぱこれいいと思われた?

伊東:いい曲だなと思いました。こんな曲、私、いつ歌ってたの?みたいな。「やだ、知らないの?」って言われたんですけど(笑)。

田家:でもいい曲ってのはそういうもんなんですよ。

伊東:138曲、アルバムでレコーディングをして、1回も生で歌ったことのない歌もたくさんありますので、その中の1曲ですね。

田家:この番組は、そういう曲で終えられるのが嬉しいなと思ったりしながら、70周年の心境を改めて伺って終わりましょうか。

伊東:やだやだと言いながら、よくここまで歌ってきたなって感じですかね。歌うことが体の一部ですから。これを取られちゃったら不抜けになっちゃいそう。今人生100年ですから、声が出る限り、歌うことが自分の健康の元でもあるし、元気の元でもあるなと思っております。

田家:歌い続けてください。ありがとうございました。

伊東:歌い続けます。失礼いたしました。

流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

138曲のボックスを見て、この中から何の曲を選べばいいんだろうと思って、結局マネジメントの方に選んでいただいた方がいいかもしれませんってことでお返ししたんです。戻ってきた選曲を見て「恋のしずく」も入ってなくて、これでいいのかなと思ったりもしたんですが、1曲1曲を聴いていくと、なるほどなと思ったんですね。なぜ「パパの日記」で始まって、娘さんと歌った「マイ・ハピネス」で終わったりしてるのか。この流れが70年前、イヤイヤ歌われされていた6歳の少女がどうやって音楽の中で葛藤して、いろんなものに反抗もして、そこから音楽にいろんな意味、幸せを見つけていったのかっていう19曲に思えたんですね。

その間の2週目、3週目、4週目で、江利チエミさんとか、弘田三枝子さん、ザ・ピーナッツとか、僕らが聴き手として聴いていた当時のカバーボップスの人たちの話も聞くことができて、2023年がいい年になりそうだな、そんな5週間だったんですね。世の中は全く変わってしまいましたが、音楽は生き続けているという、そんな始まりになったんではないでしょうか。

<コンサート情報>

伊東ゆかり 歌手生活70周年コンサート開催
2023年11月15日(水)渋谷大和田さくらホール

<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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