中国の政治家。山西省出身。
■毛沢東の忠実な部下として政治的地位築く
1938年、抗日闘争に参加。華国鋒の名は、「中華抗日救国先鋒隊」にちなむ。中国の「第一世代革命家」には、活動に身を投ずるに当たって使った「変名」を、その後も用いるようになった例が多い。
1949年の中華人民共和国成立後は、毛沢東の故郷の湖南省湘潭県で同党書記を務めた。
その後、毛沢東に「忠実な部下」として認められ、湖南省第一書記、副首相と地位を高めた。76年1月8日に周恩来首相が死去すると、2月2日に首相に就任した。
■四人組を電撃逮捕、中国トップの座に
76年9月に毛沢東が死去すると、共産党主席、中央軍事委員会主席にも就任し、70年代に権力を握った江青ら「四人組」を電撃逮捕。文化大革命を終わらせた。
政治基盤が弱かった華国鋒は、生前の毛沢東から「あなたがやれば、私は安心だ」という委託を受けたと発表。
77年2月7日、共産党機関紙「人民日報」、同理論誌「紅旗」、「解放軍報」は一斉に、「2つのすべて(両個凡是)」を主張する社説を掲載した。
「2つのすべて」とは、毛沢東の死後権力を握った華国鋒が提起したもので、「毛主席の決定はすべて守り、毛主席の指示にはすべて従う」大原則を指す。このため、華国鋒を中心とする政治集団は、「凡是派」と呼ばれるようになった。
「凡是派」は、教条的な社会主義路線を改め、柔軟な政策で経済発展を目指すトウ小平らと対立した。有力紙での「両個凡是」社説掲載の際にも、華国鋒は、「四人組批判とトウ小平批判を結びつけて推進する」と指示したという。
■権力争いでトウ小平に完敗
しかし権力争いではトウ小平が華国鋒を圧倒し、中国共産党は78年末の第11期中央委員会第3回全体会議(第11期3中全会)で改革開放路線への転換を決定。この決定は事実上の毛沢東路線の否定で、華国鋒の「2つのすべて」は政治的意義を失った。
トウ小平の勝利は、柔軟路線が支持された以外にも、解放軍内に強い基盤を持っていたことが奏功したとされる。
トウ小平は第11期3中全会で、共産党の実権を最終的に掌握したとされる。華国鋒は80年に首相から、81年には党主席と党中央軍事委員会主席から退いた。
しかし、共産党籍は保ち続け、2007年10月に開かれた共産党の第17回全国代表にも出席した。
中国は1949年の建国以来、一時的な例外を除き、毛沢東-周恩来の指導体制が続いた。華国鋒政権の誕生は政敵の逮捕だった。新たに権力を握ったトウ小平が華国鋒の党籍を維持させたのは、政権の平和的交代を根付かせ、国際的にもアピールする意図があったとされている。
■日本での暴露が、胡耀邦失脚の一因に
中国での日本人残留孤児の問題を扱った山崎豊子作『大地の子』(1991年、文藝春秋) は、トウ小平と華国鋒の権力争いにも触れている。いずれも仮名でフィクションとして描かれているが、当時の胡耀邦共産党総書記が、「うそは困るが、本当のことならば中国に都合の悪いことでもかまわない」として取材に全面協力したという。
同小説によるとトウ小平は、日本との経済協力のシンボルとして着手された宝山製鉄所の第1・2期工事で、華国鋒が担当になるように仕向けた。経済がよく分からない華国鋒が失敗することを見越した上での策で、実際に中国側の一方的な契約破棄で国際的信用を大きく失ったことを、華国鋒追い落としの材料のひとつにした。
後に、胡耀邦総書記が「保守派」の突き上げで辞任に追い込まれた際、失策のひとつとして「内部の事情を外国に漏らした」ことが挙げられたが、具体的には「大地の子」によるトウ小平と華国鋒の内幕暴露などを指すとする見方が強い。
写真は会話するトウ小平(右)と華国鋒。1987年の人民代表大会(全人代)の休憩時間に撮影。華国鋒は実権を完全に失っていたが、共産党籍や全人代の議員の地位は保っていた。
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