ヒトの麻疹ウイルスは、ウシの「牛疫ウイルス」がヒトに「スピルオーバー(異種間伝播)」することで生まれた、と考えられている(画像はAIで生成)
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第174話
2026年3月の時点で、すでに前年を上回る勢いで患者が急増している「はしか(麻疹)」。ワクチンによって制御できるはずの感染症が、なぜいま増えているのか? 人類の歩みとともに人間社会に定着してきた、と考えられている「はしか」の起源にまつわる仮説とともに解説する。
* * *
【人類と歴史を共有してきたウイルス】この連載では、新型コロナウイルスはもちろん、エイズウイルスやSARSコロナウイルス、MERSコロナウイルスなど、さまざまなヒトの病原ウイルスの「起源」にまつわるエピソードを紹介してきた。
参考まで、過去のコラムを読んでいない読者のためにすこし補足をすると、エイズウイルスは、チンパンジーが持っているウイルスがヒトに「スピルオーバー(異種間伝播)」することで生まれた(5話、151話)。
SARSコロナウイルスは、コウモリが持っているウイルスがハクビシンという動物を介してヒトにスピルオーバーすることで生まれたと考えられているし、MERSコロナウイルスはラクダからヒトにスピルオーバーを散発的に繰り返している(50話、72話など)。
そして新型コロナウイルスも、東アジアから東南アジアに生息する「キクガシラコウモリ」と呼ばれるコウモリが持っているウイルスが、ヒトにスピルオーバーすることで生まれた、と考えられている。これは最近の連載の「肝」のひとつになっていて(168話)、私の研究室では現在、新型コロナウイルスの「起源」に迫る研究を進めている。
人間社会のリスクになる新しいウイルスは、動物のウイルスがヒトにスピルオーバーすることで生まれる――。このようなコンセプトは、新型コロナパンデミックを経て、広く理解されるようになったのではないかと思っている。
それでは、すでに人間社会に定着し、完全に「ヒトの病気」の原因になっているウイルスは、いったいどこからやってきたのだろうか?
人類と歴史を共有するように「共存」してきたウイルス。その典型例のひとつが、「はしか(麻疹)」の原因である「麻疹ウイルス」である。
【「はしか(麻疹)」とは?】「はしか(麻疹)」とは、主に子どものあいだで流行し、空気感染する伝染病である。その伝播力はすさまじく、学級にひとり感染者が出れば、クラス全員が感染してしまうほどの伝播力を持つ。
ちなみに、ウイルスの伝播力の指標のひとつとして、「基本再生産数」という数値がある。
季節性インフルエンザウイルスのR0が約1.5、初期の新型コロナウイルスのR0が2~3と言われている中、麻疹ウイルスのR0はなんと12~18とも言われている。そのくらい、麻疹ウイルスの伝播力はずば抜けている。
しかし麻疹ウイルスが、新型コロナウイルスのように、現代の日本で大流行することはない。
――それはなぜか?
それは麻疹には、とてもよく効くワクチンがあるからである。つまり、現代社会における麻疹ウイルスの流行は、ワクチンによって「制御」されている状況にある。
【麻疹ウイルスはどこから来たのか?】上で述べた通り、現代においては、「共存」とも呼べる形で人間社会に定着した麻疹ウイルス。
しかし、ワクチンが開発されるまでの麻疹は、天然痘と並んで、人類の繁栄を妨げる深刻な感染症のひとつだった。WHO(世界保健機関)によると、この感染症によって、毎年およそ260万人が亡くなっていたとも推定されている。
しかも亡くなるのは子どもばかり。先進国でも「1000人にひとりが死ぬ病気」という位置づけだったのだ。
......と、ここで閑話休題して、このコラムの冒頭の話題に戻る。
それでは、ワクチンが開発されるまでずっと人類の脅威であり続けた麻疹ウイルスは、いったいどうやって生まれたのだろうか?
これまでの研究によると、麻疹ウイルスもやはり、新型コロナウイルスやエイズウイルスなどと同じように、動物が持っていたウイルスが、人間社会にスピルオーバーして生まれた、と考えられている。
しかし、その起源となるウイルスを持っていた動物は、コウモリでもチンパンジーでもない。それはいったい何か?
それはなんと、ウシである。
【麻疹ウイルス誕生に至るシナリオ】ヒトの麻疹ウイルスは、ウシの「牛疫ウイルス」というウイルスがヒトにスピルオーバーして生まれた、と考えられている。
ウシは、人類史において比較的早い段階で家畜化に成功した動物であり、およそ8500年前にはすでに家畜として飼育されていた、と言われている。そんな「人類史の伴侶」とも呼べるようなウシをおびやかしていたのが、牛疫ウイルスである。
このウイルスは人間には感染しないが、ウシやスイギュウには致死的な病気を起こし、その致死率は100%に迫るほどのものであると言われていた。家畜化した動物の集団、つまり人間社会のすぐそばで、恐ろしい感染症が蔓延していたのだ。
それでは牛疫ウイルスは、いつ人間社会にスピルオーバーしたのだろうか?
これには諸説あるが、2020年に科学雑誌『サイエンス』に発表された研究によると、牛疫ウイルスと麻疹ウイルスは、およそ2500年前に分岐した、と推定されている。
これは、「2500年前にいきなり麻疹ウイルスが生まれた」ということを意味するものではないが、この頃から牛疫ウイルスの人間社会への侵入が始まり、それがいつしか「麻疹ウイルス」として人間社会に定着した、という仮説が浮かぶ。
それはつまり、以下のようなシナリオである。
――およそ2500年前、紀元前6世紀の人類はすでに農耕を始めていた。
そのような時代背景の中、ウシという家畜で蔓延していた牛疫ウイルスが、人間社会に「侵入」を始める。人間社会が都市化することによって、「密」という環境が生まれたからだ。
「都市」というおよそ自然界には存在しない構造が人間社会の中に作られたことで、そこで流行することに適したウイルス、つまり「密」を好むウイルスが生まれ、それがやがて「麻疹ウイルス」として人間社会に定着した、というシナリオである。
【牛疫ウイルスの行く末】今回のコラムでは、麻疹ウイルスという、すでに人間社会に定着しているウイルスの誕生秘話を紹介した。
それでは最後に、牛疫ウイルスと麻疹ウイルス、ふたつのウイルスの行く末について紹介しようと思う。
まず、ウシに100%近い致死率を誇った恐ろしい牛疫ウイルス。これはなんと、2011年に根絶が宣言されている。つまり、2026年現在、牛疫ウイルスはもはや自然界には存在しない。
つまり牛疫ウイルスは、天然痘ウイルスに続いて、人類が根絶することに成功した「ふたつ目のウイルス」ということになる。
それに成功したのはやはり、牛疫に対してとてもよく効くワクチンが開発されたからだ。
OIE(国際獣疫事務局、現在では「WOAH(世界動物保健機関)」と改称されている)という"動物のWHO"をはじめとした関係組織の努力によって世界中でワクチン接種が進み、このウイルスを地球上から排除することに成功したのである。
それでは、一方の麻疹ウイルスはどうだろうか?
このコラムの冒頭で紹介した通り、麻疹もかつては「1000人にひとりが死ぬ」恐ろしい感染症だった。しかし現在では、開発されたワクチンによって、それを「制御」することができるようになった。
1978年以降、日本では、麻疹ワクチンは「定期接種」されている。「定期接種」とは、決められた年齢になったときに、タダで受けることができる(受けることが推奨されている)ワクチン接種のことである。
麻疹ワクチンの場合には、「MRワクチン」として、風疹ワクチンとの混合ワクチンとして定期接種されている(参考まで、「M」は「measles(麻疹)」の頭文字、「R」は「rubella(風疹)」の頭文字)。
2006年以降、MRワクチンは、定期接種で2回接種を受けることができるようになった。1回目が1歳の時、2回目が小学校入学前の1年間、である。
と、このように書くと、麻疹も牛疫と同じように、ワクチンによる「制御」が進み、やがて世界から消えゆくウイルスなのだろう、と思う読者もいるかもしれない。しかし麻疹は、決して「終わった」感染症ではない。
2025年以降、「麻疹」という言葉を、ウェブニュースや大手既成メディアで目にする機会が増えた。そして特に最近になって、麻疹患者の数が急増している、というニュースも飛び交うようになった。
――それはなぜか?
その大きな要因のひとつに、政権交代に伴う、アメリカの公衆衛生政策の大幅な方針転換がある、と言われている。
2025年以降のアメリカでは、少なくとも感染症の文脈においては、科学に基づいた判断が揺らいでいる、と言わざるを得ない。
CDC(アメリカ疾病予防管理センター)の集計によれば、アメリカの麻疹患者の数は、2024年の285人から、2025年にはなんと2285人へと急増し、3人が亡くなった。しかもその感染者のほとんどが、ワクチンを打たなかった子どもたちである。
繰り返すが、麻疹にはとてもよく効くワクチンがある。つまり麻疹は、「制御」できる感染症なのである。それにもかかわらず、アメリカで流行が広がった背景のひとつに、ワクチンをめぐる誤情報の拡散、つまり「インフォデミック」があるのは否定できない。
そう考えると、私たちの世界から姿を消した牛疫ウイルスは、麻疹ウイルスへと姿を変え、そして、とりつくシマをウシからヒトに変えて、しぶとく地球上に生き残っている、と言えるのかもしれない。
文・写真/佐藤 佳
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