2009年、菊田早苗は、柔道家としては遥か雲の上の存在である吉田秀彦(バルセロナ五輪金メダリスト)に勝利している
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第55回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。
前回につづき、「寝技世界一決定戦」アブダビ・コンバットで優勝し、パンクラスやPRIDEなどで活躍したレジェンド、菊田早苗をフィーチャーする。
【入ったらいきなり鬼みたいになって......】寮に持ち込んだ私物は道場前の道路に放り投げられた。1991年2月、菊田早苗の新日本プロレス入門はわずか4日で終わった。
クビを宣告したのは、タッグパートナーの佐々木健介と共に道場でコーチ役を務めていた馳浩だった。のちに政治家に転身し、石川県知事まで昇り詰めた男の指導はとてつもなく厳しかった。
「1、2!と自分でかける号令が小さいと、腕立て伏せをやりながら叩かれる。声は全然小さくないんですけどね(苦笑)。しかも、馳さんは思い切り叩くものだから、内出血で体がどんどん黒くなっていった」
解雇理由はわかっていた。
「腕立てはベンチ台に足先を乗せ負荷をかけてトータル600回。
先輩には天山広吉、西村修、金本浩二らがいたが、「みな優しかった」という記憶が残る。
「もうちょっと上にはエル・サムライさんがいましたね。人とは群れない独特の雰囲気で、僕みたいな新弟子には全然タッチしない感じでしたけど」
新日本プロレス入門のきっかけを作ってくれたのは〝黄金の荒鷲〟坂口征二だった。菊田は坂口の長男・征夫と明大中野高柔道部で一緒で、征夫が父親からもらった招待券を手に都内の会場に一緒に通う仲だったのだ。
「征夫もプロレスが好きだったので、すごく仲良くなった感じですね。それで新日本の道場にも連れていってもらったりしていました」
入門も坂口の計らいで決まり、「馳にちょっと面倒をみてもらう」と指導方針を聞かされた。入門直前、都内の会場で菊田は馳と話す機会にも恵まれ、「プロレスラーになったら頑張れよ」と温かい声をかけられた。
「そのときは『なんていい人なんだ』と思ったけど、入ったらいきなり鬼みたいになって......。坂口さんのコネというのもあったので、そこがまた甘かったですね。新弟子に対してかわいがりがあることはなんとなくわかっていたけど、馳さんの口と手(木刀)は想像を遥かに超えていたので衝撃を受けてしまったんでしょうね」
結局、その後のUWFインターナショナルへの2度に渡るトライ(前回記事参照)を含めると、菊田は3回もプロレス入りに失敗したことになる。「僕の人生、トラブル抜きでは語れない」と冗談交じりに吐露するのも頷ける。
それにしても、なぜ菊田はそれほどまでプロレス界入りを狙っていたのか。
のちに日本の総合格闘技界で確固たる地位を築き上げた菊田は意外な事実を明かす。
「僕、エンターテインメントをやりたかったんですよ」
新日本プロレス入門前、菊田は自分と同じように新日本の道場で練習しながらも同団体でプロデビューを果たすことができなかったものの、その後カルガリーに渡りプロデビューした森村方則と親交があった。森村は大仁田厚が旗揚げしたFMWで、リッキー・フジのリングネームで活躍したレスラーだ。
菊田は森村に、「プロレスとは何か」を教えてもらった。当時、菊田は年端も行かない年齢だったが、それで夢が壊れるということはなかった。エンターテインメントとしてのプロレスを突き詰めようと決意を固めていた。
【柔道を始めて1年10ヵ月で関東選手権優勝】その一方で、格闘家としてのベースとなっている柔道は中1の夏から始めた。小6からスーパータイガージムに通っていたので、一時は佐山サトルが提唱する新格闘技と柔道を平行してやっていた。途中から柔道だけになったのはそれなりの理由があった。
「タイガージムは思いのほか実戦練習がなかったんですよ。(世田谷区)瀬田のジムのときはホント基礎体力を養う練習ばかりでしたね。ジムが三軒茶屋に移ってからは実戦もやるようになったけど、それほどでもなかった。
2005年『PRIDE男祭り』では滝本誠に勝利。シドニー五輪金メダリストを抑え込む菊田
柔道家としては遅いスタートだったが、菊田はわずか1年10カ月で結果を出す。レベルが高いことで知られる全関東大会78㎏級で優勝したのだ。
当時関東で屈指の実力を誇っていたのは、柔道の私塾で古賀稔彦や吉田秀彦を輩出したことで知られる講道学舎に在籍する若き柔道家が通学する弦巻中学だった。
全国から選りすぐりのエリートが集まる弦巻中の代表を決勝で破っての優勝だった。なぜ柔道を始めて日が浅い菊田が、キャリアの長い柔道エリートを破ることができたのか?
答えはフィジカルの差だった。
「ちょうど柔道部の先生がトレーニングが好きな人で、毎日ベンチプレスとかを部員にやらせるんですけど、練習時間がやたら長い。走ったりもしたけど、それも長い。普通の体育の先生だったので、体力重視の人だったことが良かったんでしょうね」
そもそも菊田は、生まれつき人並み外れたパワーを持ち合わせていた。中1で80㎏のベンチプレスを持ち上げていたといえばわかってもらえるだろうか。筋トレのおかげで、パワーは増すばかりだった。
「中3のときにはマックスで135㎏を上げ、95㎏だと連続して8回くらい上げていましたね」
少なくともパワーに関していえば、当時の菊田は時代を先取りした〝スーパー中学生〟だった。
「正直、技は汚かったけど、ほかの子よりパワーはあった。それが関東選手権で優勝した原因だと思います。まあ弦巻の人もハンパじゃないほどのパワーを持っていたと思うんですけどね」
極めつけは中3のとき、特例としてシニアの練馬区大会に出場して、社会人、大学生、高校生をことごとく打ち破り史上最年少で優勝したことだろう。
アマチュア格闘技を経験した人ならば肌で感じることだが、まだ成長期の過程にいる中学生が高校生や大学生に勝つことは至難の業というしかない。同体重であれば、それだけパワーやキャリアに大きな差があるものだ。
「同期にSという、これまた強い中学生がいたんですけど、ふたりが特例で、彼と決勝を争って僕が優勝したんですよ。中学生同士が大人の大会の決勝を争うという練馬区柔道史上初めての出来事でした。中学生なのに大人よりパワーがありましたからね。同期のSはのちに全日本選手権にも出場しています」
菊田の規格外の強さは瞬く間に柔道界にも広まり、最終的には8校からスカウトが来たという。
「その中から明大中野を選んだのは憧れの秦光秀さんがいたからです」
秦はのちに松山三四朗の芸名でタレントとしても活躍する柔道家で、明大中野中在籍時には全国個人戦78㎏級で優勝を飾っていた。
「中学時代の秦さんは全国的に有名で、吉田秀彦さんより強かったと記憶しています。あと、将来どのみちプロレスラー志望で大変なのに寮に入ったりしてガチガチに柔道をやるのもイヤだったので、自宅から通いというところも決め手のひとつになりました」
練馬の神童には、柔道家として明るい未来が約束されているはずだった。
(つづく)
格闘技ジム「GRABAKA」を主宰する、現在の菊田早苗(撮影/布施鋼治)
●菊田早苗(きくた・さなえ)
1971年生まれ、東京都練馬区出身。GRABAKA主宰。「ザ・トーナメント・オブ・J」を96年、97年と連覇し、リングス、PRIDE、パンクラスなどで活躍。2001年にアブダビコンバット88kg未満級に出場し、日本人初の優勝。総合格闘技戦績31勝9敗3分1無効試合。
取材・文/布施鋼治 撮影/長尾 迪



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