埼玉県在住の会社員・A子さん(20代)も、そんな天国行きのチケットを手にしたことがあるうちのひとりだ。
試写会どころか、映画館自体が怖くなってしまった
「二度とこんな思いはごめんだと思って、試写会は二度と応募していないどころか、映画はもう空いている時間帯にしか行けなくなりました。しかもギリギリの時間に座席を確認し、ガラガラであるのが必須条件です。どんな人が隣に来るか、その場に行くまでわからないのが恐ろしいので……」試写会当日は、残念ながら雨。しかも季節外れの暑さで、蒸し蒸しとした嫌な天気だったそうだ。
「リピーターとしてずっと楽しみにしていた試写会です。事前に買っていた新しいお洋服で、とびきりのおしゃれをして会場に向かいました」
前日は興奮であまり眠れなかったA子さんは、会場時刻よりもかなりのゆとりを持って到着。お手洗いで身だしなみを整え、用も足し、万全の状態でいち早く座席に着いた。
「先着順ではなく、座席指定だったんですよね。私の席は、3つある島のうち上手側の島で、もっとも中央寄りの座席のひとつ隣でした。最前ではないものの、比較的見やすい位置で、やったあと無邪気によろこんでいました」
隣席の客から漂う悪臭に思わず…
スタートが一刻と迫るたび、胸を高鳴らせるA子さん。だが、通路側の隣の人はなかなか現れない。このまま来ないのなら1つでも席を詰めてしまいたいのに……などと考えていたらしい。「始まる直前、本当に1分前とかですかね。
同好の士として「ギリギリでも間に合ってよかった!」と、A子さんが抱いたエンパシー。しかし、間髪を容れずにそんなあたたかな気持ちは粉々に砕けてしまう。
「その日は降ったり止んだりの雨模様だったからか、傘を忘れたんでしょうね。服だけでなく、リュックもろともビショビショでした。しかもその人は、胸元くらいまである長髪。雨のせいだけとはいえないくらいボサボサの下ろしっぱなしで……」
男性は、髪型のせいか服装のせいか、あるいは両方だろうか、中学生ともアラフォーとも見える、年齢不詳の風貌。要するに、身だしなみへの配慮が感じられないタイプだった。
「その人が荷物を床に置いて座った瞬間、モワァっと悪臭が漂ってきました。いわゆる生乾き臭ですね。ただでさえ雑菌を繁殖させたままの服が雨と汗で濡れたことで、強烈なニオイを発するようになったのだと思います。ついゲホゲホとむせてしまい、慌ててハンカチで口元を覆いました。
だが、その動作が男性の癇に障ってしまったようで……。
濡れた髪から水飛沫が「信じられないくらい脂臭い」
「急に私のほうを向き、ギロっと睨みつけられてしまいました。出演者たちが壇上に上がり始めたタイミングだったので、素知らぬフリをしましたが、すでに怖かったです」A子さんは拍手の際は息を止め、手を叩いたというから、物悲しい。
「基本的にはハンカチを当てつづけていました。それでもトークで笑った瞬間などには防ぎきれず、軽くえずいてしまうほどのニオイだったのです」
この時点で十分すぎる災難だが、これだけではなかった。
「えずいて3度目くらいのときですかね。濡れたぼさぼさの長髪を、ばさっと払うような動作をしはじめたんです。私のいる、右側に向かってだけ。最初は手癖かなと思ったのですが、私がえずく度に繰り返すので、悪意があることを途中からは確信しました。ビショビショだから私に水飛沫がかかるのはもちろんのこと、頭皮じゃなくて毛先なのに、信じられないくらい脂臭くって……」
上映終了後に絡まれてしまう
そうなると、A子さんが余計にむせてしまうのも当然の帰結だ。「しばらくして、トークも終盤に入った頃には、私の靴やバッグを蹴ったり踏んだりするようにさえなりました。偶然かのように動いていましたが、そもそもトークや上映のあいだにそこまで動くこと自体が迷惑ですよね。そもそも靴は下ろしたてだったし、バッグもお気に入りのもの。邪魔にならないように足元には置いたものの、小ぶりなハンドバッグを足蹴にされるとはまさか思いもしていませんでした」
執拗に攻撃される恐怖を抱きつつも、これ以上汚されまいと、荷物とともに身を反対側に寄せたA子さん。
「脚を大きく広げたり組み替えたりしながら、蹴ったり踏んだりの攻撃が続きました。逃げたくなるくらい怖かったのですが、すでに上映も始まっており、途中退席してほかの人に迷惑をかけるのも気が引けて……。そもそも、服を新調さえするほど楽しみにしていた作品でもありますから、結局最後まで映画は観ました。全然頭には入らなかったのですが」
そうして試写会が終わり、順次退席の時間となった。
「なにか言われたら怖いと思い、そそくさと逃げるようにドアを出ました。すると付けてきたのか、男性に後ろからグイッと肩を掴まれたんです。『お前がゲホゲホうるさいから全然集中できなかった。せっかくの試写会が台無しになったんだから、損害賠償はして当然ですよね?』みたいなことを言われて……」
「みたいな」というのは、声が小さいうえに滑舌がはっきりしなかったために、あまりよく聞き取れなかったからだと、A子さんは補足してくれた。
「もはやここまで来ると恐怖を超え、呆然とフリーズしてしまったんです。その間もうだうだと言っていたのですが、頭には入ってこず……」
そこに現れた女性がひとり。
「気がつくと私の代わりに相手に対峙して、『私は彼女の隣に座っていたから、すべて知っていますよ。実際に迷惑をかけていたのはあなたです。
第三者の視点をぶつけられた男性は……。
当日身に着けていた服と靴を手放すことに
「思わぬ展開にびっくりしたのか、顔を真っ赤にして、ぶつぶつと文句を言いながらも去っていきました」A子さんが無事でよかった……。とはいえ、なぜ隣席の女性が駆けつけて来れたのだろうか。
「女性に『本当にありがとうございました、助かりました』と、心からのお礼をひとしきり伝えました。すると『あなたが私のほうに寄ってきたあたりから動きが大きくなったでしょ? それで目についたのと、悪臭が私のほうにも漂ってくるようになったんですよね』と教えてくれました。あまりにも動きに悪意があるししつこいし、終演後になにかあったら私が危ないと、男性のうしろをつけてくれていたそうです」
悪い人もいるが、助けの手を差し伸べてくれる人もいる……。
「助けてもらえたことへの感謝と感激は、本当に忘れられないんです。……ただ、あの身動きの取れない空間で攻撃された恐怖もまた忘れられないんです。買ったばかりの服もクリーニングに出してそのままフリマアプリで売ってしまったほど。靴は黒い汚れがついてしまったので、かなり安値でしか売れませんでした。それでもあの記憶が蘇るものが手元にあるのが嫌で。作品はしばらく触れられなかったのですが……最近ようやくちゃんと自宅で視聴できました。最高だったのですが、最高だからこそ『あんなことがなければ劇場で何度も観られたのに』との悔いも消えません」
基本のマナーだけ守れば良い
そうして、ガラガラのタイミングにしか映画館へ行けなくなったというA子さん。「マナー警察みたいなことまでは必要ないと思うんですよね。スマホ類の電源を切るとか、ビニールの音を立てないとか、基本的なことを守って観ればいいんじゃないかな、と。和装がどうとか髪型がどうとかの話もあるらしいですが、清潔で過度なニオイや香りがなければ、なんでもいいようには思います。なにより、人を攻撃するのがもってのほか。私のように、恐怖で鑑賞の自由が制限されてしまう人が出ないでほしいと思うばかりです」
かつて芸術は、もっぱら貴族が独占的にたのしむばかりであった。映画館や舞台ならではの臨場感をさまざまな人が味わえるのは、その場にいる人たちと時間と空間を共有しているからこそ。
「邪魔な他者」と思うのではなく、「ともにたのしむ仲間」として互いに配慮をしながら、文化を盛り立てられるのが理想なのだろう。
【鬼怒川庸二】
街角では知り合いに間違われ、飲み屋では酔客に話しかけられる性質を持つ。娑婆の声に耳を傾けているうちに、自然と副業ライターになった。本業もまた別ジャンルの書く仕事。ドッペルゲンガーの報告はこれまで30件超にのぼる
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