2018年放送のテレビ番組での発言が話題に

「ぶん殴ったほうが早いヤツもいる」長嶋一茂の過去発言が炎上。...の画像はこちら >>
 巨人の阿部慎之助前監督の辞任に関連して、長嶋一茂の“体罰容認”発言が再びクローズアップされています。三田村邦彦や真木よう子など、阿部前監督による“しつけ”を擁護する流れの中で、過去が掘り出された格好です。

 それは、2018年11月2日放送の『ザワつく!一茂良純ちさ子の会』(テレビ朝日系)でスポーツ界でのパワハラ問題を取り上げた際のこと。
そこで一茂は「50回言っても聞かない、ぶん殴ったほうが早いヤツもいる」と語ったのです。自身も「30発40発殴られてきた」と明かし、体罰でなければ矯正できない子供もいるとの自説を披露していました。

 これにネット上では批判が噴出。“やっぱり殴って育てるとダメなんだ”と、怒りを通り越して呆れる人が多い様子です。さらには、“殴られて育ったから自主性を失ってしまったのだろう”と、冷静に分析するコメントもありました。

 とはいえ、Yahooニュースのコメントなどを見ると、体罰を容認したりやむを得ないと考える人たちが一定数以上いることもうかがえます。従来からそうした世論があることを踏まえて、当時の一茂氏もあえて過激な言い方をした面はあるのかもしれません。

 確かに、学習には時間がかかる。教える側にも教わる側にも根気が必要です。一方、体罰や暴力ならば、その面倒をすっとばせるという“メリット”があります。そうして、表面上では社会の体裁を保てる、というのが、一茂氏をはじめとした体罰容認論の根拠とする考え方なのでしょう。

体罰の存在する組織は“もろい”理由

 しかし、「ぶん殴ったほうが早いヤツもいる」という考え方には、日本人の考え方の致命的な弱さがあらわれています。それは社会の厳しさを言い表したつもりなのだろうけれども、逆にもろさを白状しているのに過ぎないからです。


 ぶん殴られて従うということは、秩序や理念ではなく恐怖に屈服しているだけの状態を指します。それが当たり前になると、今度は殴られないために瞬間的な反射神経しか用いなくなります。

 だとすれば、そうして刹那的な危機回避で辛うじて保たれる“正常な”社会機能は、果たして持続可能だと言えるのでしょうか?

 これを、日本では学校の部活動から、しごきと言って正当化してきた歴史があります。理不尽な仕打ちに耐え抜くことが精神の鍛錬につながるという考え方です。スポーツや吹奏楽での技術の習得も、“しごき”によって培われたメンタルを土台に仕込まれていく。それが日本的な強化(教化)の根幹にあると言えるでしょう。

 殴られたり罵倒されたりしたくなければ、早くできるようになれ。これが、日本流の組織統率術だというわけです。

 ただし、そのような付け焼き刃の組織の寿命は短く、ひとたび瓦解すれば再構築には莫大な時間がかかります。つまり、暴力による秩序維持には、文化やフォーマットを何も遺せないという決定的な欠陥があるのです。そのように指導してきたリーダーを失った瞬間に、グループが機能してきた再現性も失われるからです。

「暴力=効率がいい」という考え方の恐ろしさ

 長嶋一茂氏の発言と、それに賛同する人たちは次の点で体罰や暴力を見誤っています。
本来ならばその場しのぎの処置に過ぎない暴力を成人するために不可欠な通過儀礼だと誤解し、あろうことか過大評価していることこそが最大の問題なのです。

 もちろん、平手打ちのひとつも許さないなどという綺麗事を主張したいのではありません。しかしながら、子供や学生をひっぱたくことを公言しても恥ずかしさを感じないことは、暴力そのものよりも恐ろしい事態をあらわしているように感じます。

 言葉による説明を面倒くさいこと、無駄なことだと考えることは、すなわち暴力に効率のよさを見ることに他ならないからです。

 そうなると、暴力が社会全体を支配するようになるまでに、時間はかからないでしょう。

 それこそが、社会のタガが外れたことを示すのです。

文/石黒隆之

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。X: @TakayukiIshigu4
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