国家が子供に「SNSを使うな」と言えば、すぐに「自由の侵害だ」という議論が起きる。では、SNS企業が子供を何時間も画面から離れにくくする無限スクロールを作り、次々と動画を差し出す推薦アルゴリズムを設計し、夜になっても通知で呼び戻すことは、なぜ同じ「自由」の問題として語られないのか。

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なぜ「企業による支配」は自由の問題にならないのか

年齢による一律規制に慎重であるべき理由はある。知る権利、表現の自由、子供の主体性。どれも軽視していい話ではない。だが、国家による「使うな」だけを自由の問題として、企業による「もっと見ろ」を自由の問題にしないなら、そこには奇妙な非対称がある。

子供の指を止められなくしている仕組みを作ったのは、国家ではない。プラットフォーム企業である。

それにもかかわらず、日本ではSNS規制の議論になると、国家による年齢制限ばかりが「自由」の問題として前面に出やすい。企業がコードやアルゴリズムによって利用者の行動をどう設計しているのかという問題は、少なくとも同じ強さでは争点化されてこなかった。

今年7月31日に公表された、こども家庭庁の有識者ワーキンググループ(座長・曽我部真裕京都大学大学院教授)の中間整理報告書は、推薦アルゴリズムや無限スクロールについて、「利用者の注意を継続的に引きつける仕組みとして設計されている側面」があり、子供の長時間利用や心身への影響につながるリスクがあると明記した。政府の側でも、ようやく「使いすぎる子供」ではなく、「使い続けさせるサービスの設計」を問題にし始めたのである。

さらに9月17日の第2次高市改造内閣では、日本維新の会の中司宏衆議院議員が、こども政策・少子化対策・規制改革などを担当する内閣府特命担当大臣に就任した。前任の黄川田仁志衆議院議員は、次期国会で青少年インターネット環境整備法の改正方針を示していたが、新体制でどう扱われるのか、今後も注視していく必要がある。

いずれにしても諸外国の動向をみてSNSに一定の規制が必要になっていることは行政レベルで認知されているとみていいだろう。
それなのに、SNS規制をめぐる目に見える言論は、依然として「一律の年齢制限を許すか、ネットの自由を守るか」という古い二項対立ばかりが繰り返されている。

なぜ言論は追いついていないのか

実際、7月31日の黄川田前大臣の会見でも、中間整理をめぐって前面に出た質問は、「年齢による一律のSNS規制を導入するのか」という論点だった。

なぜ、日本ではSNSをめぐる議論が「規制か自由か」で足踏みをしているのか。これは、デジタル空間において「誰が決めているのか」の意識を誰も更新して来なかった結果である。

SNSが普及し始めた頃の「ネットの自由」論が想定していたのは、単純な構図だった。国家が規制し、ユーザーがそれに抵抗する。ネットは国家の介入から自由であるほどよい……そう考えることには、当時のインターネット像からすれば自然なところがあった。

しかし、その前提はもう崩れている。

現在のSNSは、単に利用者が好きな情報を投稿し、好きな情報を読む「場所」ではない。何を表示するか、何を拡散するか、次に何を見せるか、いつ通知を送るかまで、テック企業がアルゴリズムとサービス設計によって決めている。

ここで厄介なのは、企業が自由を奪っているようには見えないことだ。むしろSNSは、「自分で選んでいる」「自分で発言している」「自分でつながっている」という感覚を与えてくれる。

しかし、それはまやかしである。


自分が見たいと思った動画は、なぜそこに表示されたのか。怒りたくなった投稿は、なぜタイムラインの上位に現れたのか。あと一本だけと思った動画が、なぜ延々と続くのか……。

こうした変化を無視して、「国家が規制するか、ユーザーの自由を守るか」という二者関係だけで考えるのは、もはや現実を見ていない。

「ネットの自由」という名の思考停止

すでに世界では、SNSを野放しにすることの危険を、単なる「使いすぎ」の問題としては見なくなっている。問題にされているのは、推薦アルゴリズムや無限スクロール、通知といったサービス設計が、人間の注意や行動をどこまで方向づけるのかという点だ。

9月17日に欧州委員会が公表した「KIDS Act」も、その発想に立っている。未成年向けサービスには安全な設計を求め、無限スクロールや過剰な通知など、利用をやめにくくする設計を制限する。推薦アルゴリズムについても、単なる利用時間の最大化ではなく、安全性や子供の利益を優先するよう求めている。

オーストラリアでも、2026年3月の制度改正で、推薦機能などの有無そのものが、年齢規制の対象を判断する基準に加えられた。規制当局が見ているのは、もはや「子供がSNSを使っているか」だけではない。「そのSNSが、どんな設計で子供を使い続けさせているのか」である。


一方、日本ではいまだに「SNSは社会とのつながりでもある」「学校や家庭で孤立した青少年の居場所にもなりうる」として、規制に抗う意見が根強い。しかし、SNSが誰かを救う場所になりうることと、その場所を運営する企業がどのような仕組みで利用者の注意を集め、何を見せ、どれだけ長く滞在させるかを決めていることは、まったく別の問題である。

つまり、「SNSには良い面もある」という主張だけでは、すでにテック企業が私たちの認知の入口を握っているという問題には答えていない。

何を見るか。何に怒るか。何を重要だと思うか。その手前で、アルゴリズムが情報の順番と露出を決めている。

それでもなお「自由なネットを守れ」とだけ言うなら、守ろうとしている自由そのものが、誰かに設計された空間の中にある可能性を見落としている。ここに、日本の「デジタル敗戦」がある。

日本のデジタル敗戦とは、国産SNSがないとか、巨大テック企業を育てられなかったというだけの話ではない。もっと深刻なのは、デジタル空間で誰が「決める権利」を握っているのか、その権力の所在そのものを十分に認識できていないことである。

国家が何かを禁止すれば「権力」だと気づく。
だが、テック企業がアルゴリズムによって何を見せ、何を拡散し、どこまで人間の注意を奪うかを決めていても、それは「便利なサービス」の一部として受け入れてしまう。

子供の「指が止まらない」を生むのは誰か?SNS規制で見落とされる企業の「設計責任」
昼間たかし氏の新著『「デジタル主権」戦争 国家と巨大企業が奪い合う「見えない支配」の全貌』
拙著『「デジタル主権」戦争』で繰り返し問うたのは、この「誰が決めているのか」という問題だ。本書では、決済、プラットフォーム、SNS、AI、行政インフラまで、日本人の日常を動かしている仕組みをたどりながら、国家と巨大企業が奪い合っている「決める権利」の正体を追った。第7章「日本のデジタル敗戦」では、とりわけ、なぜ日本ではこの支配の構造そのものが見えにくくなったのかを掘り下げている。

SNSの年齢規制に賛成か反対か。それだけを論じている限り、この問題の半分しか見えていない。問うべきなのは、誰が子供のSNS利用を規制するのか、ではなく、そもそも誰が、見えている世界を設計しているのかである。

文/昼間たかし

【昼間たかし】
ルポライター。1975年岡山県に生まれる。県立金川高等学校を卒業後、上京。立正大学文学部史学科卒業。東京大学情報学環教育部修了。
ルポライターとして様々な媒体に寄稿。著書に『コミックばかり読まないで』『これでいいのか岡山』
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