巨人の監督を退任した2001年、巨人担当キャップだったわたしがそのまま長嶋さんの評論やコラムを代筆する役を担うことになった。ただ、ビジネス局へ異動する2017年の6月まで16年半も原稿を書き続けることになるとは思ってもみなかった。
2004年2月10日、宮崎キャンプの視察後、ホテルの部屋で取材する様子が古いICレコーダーに残っていた。「山本君、今日は清原でやろう」と言い出した直後から録音は始まっている。
普段、コラムや評論の題材はこちらに決めさせてくれた。「ファンが何を聞きたいのかを知っているメディアの方だから」どこまでもファンファーストな人だった。ただ、今回は珍しく清原の練習内容に惚れ込んだ長嶋さんが珍しく希望を口にした。
その頃のミスターはちょっと早口で乗ってくると止まらなかった。「チームの波及効果っていうのかな。こう、その渦巻きが伝播して、選手同士がシグナルの交信をやっているわけ。清原もその波及効果を受けてる1人だと思う。(タフィ)ローズや小久保(裕紀=現ソフトバンク監督)の打撃をケージの後ろから見てね『やっぱりいいバッティングしてるね』って評価しているわけよ、きっと。で…」この間、わたしは「ええ」「はい」「そうですね」って相づちを打つだけだった。ミスターはかつて高橋由伸さん(現本紙評論家)を「指導する隙を与えない」と評したが、長嶋さん自身は「記者に質問をする隙を与えない」野球人だった。
しゃべるのが上手なのは有名だが、実は話を聞き出すのも巧みだった。これも大病を患う前のことだった。ミスターと当時の専属広報と昼食をとりながら、セ・リーグのある球団の監督人事に話が及んだ。「マスコミが書いてる監督で決まりなの?」ミスターの質問にわたしは明確な回答を持ち合わせていなかった。
「じゃ、電話してみっか」と言うと目の前で関係者の携帯電話から当該球団の幹部へ連絡をとった。「○○さん久しぶり~。ゴルフの調子どうよ。いくつぐらいで回っているの?」と、横道から入って「ところでマスコミ賑わしてる例の話、あれどうなのよ」と巧みに本題に入った。しばらくして電話を切ると、万人が癒されるあのスマイルを浮かべて「決まりだってよ!」長嶋さんはきっと新聞記者を職業に選んでいても超一流だったと思う。
発病後はリハビリの施設で取材をしたり、お茶に付き合ってもらった。2015年の秋口は、DeNAの中畑清監督の去就が注目されていた。「中畑さんどうされるんでしょうね」わたしは何の気なしに尋ねた。
後に長嶋さんから聞いた話だが、ミスターは愛弟子のキヨシに自らの経験も交えて「今はBクラス。成績が悪い年はフロントの言うことを聞いた方がいい。で、来年勝って好きなことをすればいい」とコーチ人事はフロントに委ねて続投要請を受けるよう諭していた。その後どんな経緯を辿ったか知らないが、ともかく中畑さんは辞任した。スポーツ各紙は1面で大きく報じた。
ところが報知は裏取りに深夜までかかり記事化できたのは締め切り時間がもっとも遅い「最終版」のみだった。ミスターの自宅に届いた「9版」には「キヨシ辞任」の記事はない。翌早朝、ミスターから電話がかかってきた。
「ごめんよ。俺が『辞めない』って言ったから記事にしなかったんだろう」
「いや、監督のご自宅に届いた新聞には出てませんが、なんとか格好はついています」
と説明したつもりだが、強い申し訳なさのせいなのかミスターの脳内では報知が「特落ち」したままになっていた。
「キヨシがオーナーのところへ(辞任報告に)行く前に俺ん家に来るから、そこでキヨシを説得する!」中畑さんに対する慰留工作は、わたしたちの「特落ち」を帳消しにすると意味も込められていた。
現場にいた頃、長嶋さんを取り囲む各社の担当記者は精鋭揃いだった。その中で唯一といっていいぼんやりした記者だったからこそ、長嶋さんの印象に残ったのだろう。「おい、大丈夫か?」管理職になった後も気にかけてもらった。野球はもちろん、人としてどうあるべきも教わった。実践できないまま、お別れの時を迎えたのが悔しい。(山本 理=1997~2001年巨人担当、17年6月まで評論担当)