巨人の長嶋茂雄終身名誉監督=報知新聞社客員=が、2013年に国民栄誉賞を受賞した際に、スポーツ報知紙面で特集した「私だけが知る長嶋茂雄」を再録。ONとして時代を築いた王貞治氏が盟友について語った場面を抜粋した。

(肩書、敬称などは当時のまま)

◆王さん「長嶋さんはイチロー」

 ―プロ野球界をともに引っ張ってきた長嶋さんが国民栄誉賞を受賞。

 「国民みんなが喜んでいるんじゃないかな。長嶋さんの存在は日本の野球の歴史の中でもオンリーワン。長嶋さんがいなかったら、プロ野球がこれほど注目されることもなかった。その存在があったから、お客さんも来るようになったし、メディアの扱いも大きくなった。そのお陰で我々がやったことも、大きく扱われるようになった」

 ―唯一無二の存在。

 「期待を一身に背負って、それに応え続けたことをファンもメディアも覚えている。現役をやめて40年以上もたって、これだけ騒がれる人は他にいない。プロ野球の80年ほどの歴史でスーパースターと言われた人が何人かいたけど、スーパーのまたスーパーは長嶋さんだけ。『ON』という形で同じように扱われてきたことを光栄だと思っています」

 ―改めて2人の関係は。

 「ライバルという考えを持ったことがない。最初の頃は雲の上の存在。

それがだんだん自分が打てるようになると近づいてくる。もっと近づきたいと思ってやった。でも、存在感は数字や記録で測れない。長嶋さんは先頭に立って、ボクは次男坊的に気楽にやれた。ボクの中では長嶋さんは特別な存在。『両雄並び立たず』という次元でないから、逆に並び立てたと思う。本当に競い合う立場だと並び立たない。長嶋さんも争いを好む性格でなかったし、ボクも野心に燃えて、というのもなかった。お互いの性格的にもうまくいった」

 ―言葉がなくても分かり合える関係だった。

 「ファンから大きな期待を寄せられて、打てない時のつらさがある。ボクもある程度、打てるようになってから、長嶋さんの苦労が分かるようになった。でもボクはあくまで、打つか打たないかで苦労しただけ。

長嶋さんは求められるものが違った。英雄視され、常に長嶋茂雄でいなければいけなかった。好むと好まざるとにかかわらず、人の目を意識してやらざるを得なかった。ボクは下町育ちだし、次男坊的に、人の目を意識しないでやれた。入団した時からのスターと、だんだん成績が良くなってきた選手とは違う。ファンがスターとして求めるのは強烈さ。それも『誕生』という言葉が使えなければダメ。ボクのように3年も4年も時間がかかったら誕生ではない」

 ―打者・長嶋さんの素晴らしさは。

 「分かりやすく言うと、イチロー的にボールを捉えるのがずぬけてうまかった。これは先天的なもの。当時は体勢を崩されながらヒットを打つ人は少なかった。そういう意味では2013年でも通じる打撃で、我々のは70年代ぐらいの打撃。

勝負の世界で最終的に決定打をはじき出すのは形にとらわれない球際の強さ。それが際立っていた。だから数多くヒーローになれたんじゃないかな」

 ―今の時代から振り返ると、ONというのは奇跡的な存在だった。

 「V9だけでなくね、次元が違うところで、ONというのは戦っていた。満足しないで、もっともっとと。こうやって振り返ってみると、2人とも、よく頑張ったなと思う」

◆国民栄誉賞1号

 ◆王 貞治(おう・さだはる)1940年5月20日、東京都生まれ。85歳。早実時代の57年春のセンバツで優勝投手に輝き、59年に巨人入団。一本足打法に変えた62年から本塁打を量産し、77年9月3日にハンク・アーロンを抜く世界記録となる756号を放った。80年に現役引退するまで通算本塁打は868本。84年から5年間、巨人監督を務め、87年にセ・リーグ優勝。95年にダイエー(現ソフトバンク)監督に就任し、08年まで14年間指揮。

99、03年に日本一。06年3月にWBC日本代表監督として、初代世界一に輝く。08年12月に巨人OB会長、09年1月にソフトバンク球団会長に就任。

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