スポーツ報知が2014年に特集した大型企画「あの時」。巨人の長嶋茂雄終身名誉監督=報知新聞社客員=がピックアップした1959年6月25日の天覧試合を振り返ったインタビューを再録する。
▼1959年6月25日(後楽園)
阪神 001003000 |4
巨人 000020201X|5
[勝]藤田21試合14勝2敗
[敗]村山22試合5勝7敗
[本]長嶋12号(小山)13号(村山)坂崎5号(小山)藤本12号2ラン(藤田)王4号2ラン(小山)
◆ホームランしかない 狙っていた内角の1球
その一撃は、「劇的」を通り越して「奇跡的」と表現するのがふさわしい。1959年6月25日、天皇(昭和天皇)と皇后(香淳皇后)両陛下を後楽園球場に迎えたプロ野球史上初の天覧試合。同点の9回先頭。長嶋は、阪神・村山実から左翼席の中段へ鮮やかなサヨナラアーチをかけた。
打ったのは内角高めのシュート。ボールとの距離が取れない分、ただでさえバットの芯に捉えるのは難しいコースである。しかも、ボール球だった―。
「見逃せば、ストライクじゃなかった。ボール2個分ぐらい高かった。だから自分でもよく打てたという気持ちはある。今まで打ったすべてのホームランを振り返っても最高のスイング、最高のバッティングだったな」
究極の場面で、本来なら空振りを避けてファウルにするのが精いっぱいのコースをスタンドまで運び、試合を決めるのは長嶋にしかできない。
開幕から最初の24試合で4割6分4厘、10本塁打とすさまじい勢いでスタートを切ったが、それ以降の27試合で本塁打はわずか1本、打率も3割2分6厘まで下がった。不調のきっかけを作ったのは阪神の両エースによる内角攻めだった。
「小山(正明)さんと村山さんが懐を攻めてきたのは覚えている。(投手としての)タイプは違うけど、ボールは速かったからね。で、5月の終わりぐらいから全く当たらなくなった。練習ではいいんだけど、試合ではダメでね」
他球団の投手陣とは対照的な“攻めの投球”を2人から繰り返された。前日(24日)の阪神戦(後楽園)もヒットを打てず、このカードでは実に5試合、19打席ノーヒット。最後の打席は空振り三振だった。マウンドの村山がウイニングショットに繰り出したのは内角の速球。悪いイメージをぬぐえぬまま、大一番を翌日に控えた長い夜が始まった。
「そう。
昭和天皇が観戦を前に強い関心を寄せられていたことが2つある、と言われている。一つは野球の華とされるホームラン。もう一つは、当時、圧倒的な注目を集めていた長嶋茂雄の存在だった。
「陛下がホームランが出るのを楽しみにされていることは知らなかった。ただ、自分のことを両陛下が知ってくださっていることは人づてに聞いていた。だから、やっぱりホームランをお見せしたい、という気持ちは前の日から持ってはいた」
試合は、いつもにはない静けさの中で始まった。スタンドのファンがカネ、太鼓を鳴らすことは禁止され、売り子は声を張り上げるのを慎んだ。
「選手たちにもいろいろ通達があったよ。
2回先頭で迎えた最初の打席、天敵ともいえる先発・小山から左前安打を放った。3試合、10打席ぶりのヒットだった。このカードでは実に6試合、20打席ぶりである。不振から来る不安、静寂が作る異様な緊張から一気に解放され、自分を取り戻した。あるいは、格別の高揚感から長嶋以上の長嶋に変わったといえるかもしれない。
「(ヒットが出て)気持ちは楽になった。『よしっ』って気持ちになれたね」
5回先頭の第2打席では、再び小山から今度は左越えへ同点ホームラン。打ったのは、スランプに導かれた内角低めの真っすぐだった。難しいボールを見事に捉え、陛下が楽しみにしていた放物線を描いた。
「腰がうまく回って、バットが、パーンと本当にスムーズに出た。そりゃ、もう最高だわな。バッティングの中で一番いい結果といえるホームランを陛下にお見せできたわけだからな」
試合は手に汗握る好ゲームだった。3回に先制された巨人が5回に長嶋、坂崎一彦の連続本塁打で逆転。6回には4番・藤本勝巳の2ランなどで再びリードを許したが、7回にルーキー・王貞治の2ランで再び試合を振り出しに戻した。
同点の9回、先頭打者として打席に向かう前の気持ちを今回、ついに打ち明けた。2冊の自伝ではそこに触れず、本紙をはじめとしたいくつかのインタビューでは殊勝に「塁に出ることしか考えていなかった」と答えていた。しかし、本音は―。
「いや、もうあとはホームランしかない、という気持ちだったね。それしかないって」
一発だけを狙っていた。天覧試合から55年目に明かされた真実である。
マウンドには7回途中から前夜に続き、村山がいた。
「近め(内角)、外、近め、外と(いう配球で)来てるわけだからね。で、(追い込まれているので)真ん中はないわけだし。前の日の(内角高めを振らされた)三振も、もちろん頭にあった。だから内角勝負という読みはあったね」
長嶋にとって、それは「読み」というより「確信」に近かった。投球モーションに入ると、いつもより大きめにアウトステップすることでボールとの距離を作り、上からぶつけるように小さく、鋭くスイングした。大事な場面で一発を狙える大胆さと圧倒的な技術に加えて、完ぺきな読みが加わり、内角球をスタンドへ運ぶ不可能を可能にした。
「フィジカル、スキル、メンタル、インサイドワーク。結果を残すために欠かせない要素を、いざという時に遺憾なく発揮できる。
シーソーゲームの末、両陛下が注目する長嶋の一発で試合が決まったことで「八百長だ」と陰でささやかれるほど、ドラマチックな展開だった。野球の面白さが詰まった内容にファンが酔い、プロ野球人気は高まった。長嶋にとっては、自らの勝負強さを確信できたという意味で「ミスタープロ野球」が誕生した日といえるだろう。(取材・構成 山本理=敬称略)
◆長嶋 茂雄(ながしま・しげお)1936年2月20日、千葉県生まれ。89歳。佐倉一高(現佐倉高)から立大を経て、57年巨人入団。58年に新人王、本塁打王、打点王を獲得。74年現役引退。通算成績は2186試合、打率3割5厘、444本塁打、1522打点。MVP5回。首位打者6回。本塁打王2回。打点王5回。75年、巨人監督に就任も球団初の最下位に。76年からリーグ連覇。80年に退き、93年に監督復帰。94、96、00年と優勝。94、00年は日本一。01年シーズンを最後に勇退。88年野球殿堂入り。