◇天覧試合・59年6月25日(後楽園)

 現役時代の長嶋茂雄さんは、抜群の勝負強さでファンの記憶に刻まれる名場面を数多く残してきた。公式戦2186試合、日本シリーズ68試合の中から、ベースボール・アナリストの蛭間豊章記者が12試合のメモリアルゲームを厳選した。

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 プロ野球が「国民的スポーツ」に転換する契機になった日と言っても過言ではない。1959年6月25日、後楽園球場で行われた「伝統の一戦」。プロ野球関係者にとって念願だった昭和天皇、皇后両陛下ご臨席による天覧試合が史上初めて実現した。

 栄誉を担ったのがジャイアンツとタイガース。当時も後楽園球場の巨人戦中継は日本テレビが独占していたが、同局は全国20局をネットしていたものの一部地域で見られないことを考慮し、公共放送であるNHKの中継も許可。異例の2局同時中継となった。

 試合は、巨人の藤田、阪神の小山の両エースの先発で始まった。鳴り物応援が禁止され、いつもとは違う雰囲気が球場を包む中、白熱のシーソーゲームが展開された。

 巨人は1点を追う5回に長嶋の同点ソロ、続く坂崎のソロで逆転。だが、阪神も意地を見せ、6回に3点を取ってひっくり返した。巨人は7回、新人の王貞治が同点2ラン。初めての“ONアベックアーチ”が生まれ、4-4で9回を迎えた。

 先頭打者は長嶋だった。宿敵・村山実の速球をとらえた打球は、左翼ポール際へのサヨナラアーチ。「狙っていたわけではないが、たまたまいった」。9回に入り、すでに時計の針は午後9時を回っていた。当日、天皇陛下は午後9時15分に皇居に戻られることになっており、その直前に劇弾が飛び出した。長嶋のヒーローインタビューの途中で陛下が帰られるときに、球場内の選手、ファンが一斉に貴賓席に向かって拍手をすると、陛下は何度も帽子を振って応えた。この試合の出場選手、審判員などには天皇から“恩賜の煙草”(天皇家の紋が入っていた紙巻きたばこ)を下賜され、水原円裕(茂)監督らは、それを神棚に飾っておいたという。

 長嶋は一番の思い出の試合にこのゲームを挙げる。「あの試合、あの時間は野球界において何ともいえないようなシーンだった」。天覧試合の開催は、長嶋本人も以前から熱望していた。プロが「職業野球」と呼ばれ、まだ社会的地位が高くなかった時代。「当時は『天皇陛下や皇后陛下は野球なんてご覧にならない』という雰囲気があった。

相撲は見に来てくださる感じはあったけど、野球は無理だと思っていた。何とか一度と、かねがね思っていた」と回想する。その思いは、球界関係者も同様だった。同年2月のキャンプに天覧試合の開催を知った後は、チームメートらとその話題で持ちきりになった。

 ただ、両陛下が、どの球場をご覧になるのかは直前まで分からなかった。結局、試合日のわずか6日前に決定。読売新聞が「天皇 後楽園ナイターへ 25日の巨人・阪神戦 初めてプロ野球ご見物」と報じた。当時の日本野球機構事務局長、井原宏の「今年初めから宮内庁当局と打ち合わせていたが、どのカードをご覧になるかは、もっぱら陛下のご意思にお任せした」との談話も掲載された。

 実は、天覧試合前に長嶋はスランプに陥っていた。練習を重ねたものの、調子が上がらず、前日の試合も無安打に終わっていた。しかし、本番の1打席目で三遊間を破る左前安打。比類のない大舞台で、天性の勝負強さを見せた。

「国民が注目しているビッグゲームは不思議と力がわいてきた」

 天覧試合の6年後、長嶋は、昭和天皇から「あのときはいいホームランだったね」とお言葉をかけられた。長嶋は「天覧の中でホームランを打ったこと自体が、野球人として最高の栄誉」と、プロ野球人気を押し上げた歴史的な一戦を心に深く刻んでいる。=敬称略

 ◇天覧試合・59年6月25日(後楽園)

阪神 001 003 000―4

巨人 000 020 201X―5

勝 藤田

敗 村山

【本】藤本12号2ラン(神)、長嶋12号、13号、坂崎5号、王4号2ラン(以上巨)

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