長嶋巨人、王巨人でそれぞれコーチを歴任したのが須藤豊さんだ。現役時代、甲子園遠征時は長嶋茂雄さん、名古屋遠征では王貞治さんと同室で、グラウンドとは違う2人のスーパースターの“素顔”を間近で見てきた。

2010年にスポーツ報知に掲載されたインタビューを再録する。=以下敬称略=

 今も、須藤には忘れられないシーンがある。ミスターの現役最後のシーズン。1974年のことだ。

 「その前年(73年)から、ミスターの力はハッキリと落ちていたんですよ。確か広島戦だったかな。相手投手は安仁屋(宗八)だった。ミスターは苦手にしていてね。そしたら、ベンチで川上(哲治)監督が言うんだよ。『おい、長嶋には代打だ』って。それも本人に聞こえるようにね。ミスターのチームでの地位を考えれば、代打なんてあってはならないこと。

ミスターを見ると、全身から怒りが伝わってきていたね」

 当時、守備コーチだった須藤は、バットケースからミスターのバットを引き抜き、手渡した。「イヤ、いいんだ。スーやん、代打だろ」。初めて長嶋が拗(す)ねる姿を見た。ネクストバッターズサークルにもいかず、ベンチに腰を下ろしたままの長嶋の背中を押した。やる気のないように打席に入ると、安仁屋の初球を強振。打球は三遊間を抜いていった。

 「プライドが傷つけられたんだろうね。あの一打にミスターの意地を見た気がする」

 また、甲子園の阪神戦で、相手のエース・江夏豊から1球もバットを振れずに見逃し三振に終わったことがあった。試合後、宿舎のサウナに須藤が行くと、そこに長嶋もいた。

 「ところが、いつもは向こうから声をかけてくるのに、何も言わないんだ。それどころか、頭からタオルをかぶって、ジッと下をうつむいたまま。

天真らんまんを絵に描いたようなミスターが放心状態というか、悩み、苦しんでいたんだろうね。あの瞬間、『これで間違いなくミスターは引退する』と思ったね」

 後楽園での引退試合の時、「巨人軍は永久に不滅です」の名文句とともに、ファンの前では最後までスーパースターとしての背番号3を貫いた長嶋だったが、最後のシーズン、一人の野球人として苦悩する姿が、今も須藤の脳裏に焼き付いている。

 天才・王にも、グラウンドでは見せないような一面があった。初めて本塁打王を獲得した翌年(63年)のこと。オープン戦初戦の西鉄(現西武)戦に臨むため、巨人は福岡に宿泊した。宿舎で相部屋となった須藤と王は「部屋で一杯やろう」とビールの栓を抜いた。その時だ。

 「『スーやん、俺、今年もホームラン打てるかな』っていうのよ。明日からオープン戦が始まる、その直前よ。キャンプではけがもなく順調に調整していた王がね。やっぱり、怖かったんじゃないかな。頂点に上りつめた者にしか分からない怖さというか…その後、どんなにスランプに見舞われても『明日を見ていてよ』って言っていた男がね。

あの時だけよ。弱音を吐いたのはね」

 結局、このシーズン、王は40本塁打をマークして2年連続のタイトルを獲得し、74年までキングの座を譲ることはなかったのだが、毎年、大きな重圧を感じ、それをはねのけながら戦ってきたすごさが、須藤の語る逸話から分かる。

 動と静―長嶋と王は、よくこう例えられる。須藤もそのことを実感している。面白いエピソードがある。

 「ミスターはね、グラウンドでファインプレーをするでしょ。打球にガッと跳び込んでね。僕が二塁の守備位置から見ていると、なかなか起き上がらないんですよ。それで、スタンドのファンの拍手が鳴りやむと、やおら『エヘヘ…もういいかな』って立ち上がるんだな。逆に王は、ちょうどシーズン55号を打った時(64年)かな。観客に手を振ることもなく、普通にダイヤモンドを回ってベンチに帰ってきた。『(ファンに)帽子くらい振ってやれよ』と言うと『いや、いいんだ。

ファンは俺の技術を見に来ているんだ』って言うんだ。こっちがイライラしちゃってね。アイツの帽子をふんだくって、僕が振っちゃいましたよ」

(2010年2月19日、スポーツ報知に掲載)

 ◆須藤 豊(すどう・ゆたか) 1937年4月21日、高知県安芸郡安芸町(現・安芸市)生まれ。高知商から毎日(現・ロッテ)に入団。内野手(二塁手)としてレギュラーを獲得。62年に巨人移籍。68年に現役引退後、巨人1、2軍の守備コーチを歴任。76年から4年間会社員生活を送り、80年に大洋(現・横浜)2軍監督で球界復帰。83年、2軍守備コーチで巨人に戻ると、1軍守備走塁コーチ、2軍監督を務め、90年から92年のシーズン途中まで大洋の1軍監督。93年、復帰した長嶋監督の下、ヘッドコーチに就任。その後も西武(97~99)、堀内巨人(04年)のヘッドコーチを務めた。

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