1974年10月14日、巨人・長嶋茂雄が17年間の現役生活に別れを告げた。中日とのダブルヘッダーを終え、5万人のファンの声援に涙を浮かべて応えた。
長嶋は泣いた。珠玉の涙がそのホオを伝わった。抜けるような青空の下、数々の栄光を刻んできた後楽園球場で青年・長嶋は泣いていた。
第1試合終了後、感動的なハプニングが5万観衆の涙を誘った。両軍ナインがロッカーへ引き揚げた無人のグラウンドへ長嶋は突然一人歩き出していた。球団が演出したセレモニーにはない衝動的な惜別だった。「外野のファンにもお別れと感謝のあいさつをしたい…」混乱を配慮した球団の制止を振り切って歩を進めた。
帽子を振り、両手をかざす長嶋に5万観衆は全員が立ち上がっていた。痛くなるような拍手と「長嶋、長嶋」の絶叫の中で長嶋は千金の笑顔を振りまいていたのだ。
だが右翼スタンド前まできたときだった。
「たくさん泣け、長嶋」「もっと泣け、長嶋」中堅から左翼席のファンも総立ちだ。拍手はいつしか長嶋の歩調に合わせた手拍子に変わっていた。太陽の輝きにも似た涙を長嶋はもう一度タオルでぬぐった。
偉大なバットマンは最後の最後まで、その燃える闘志をグラウンドで表現してみせた。4回、土井を一塁に置いて長嶋のバットがうなった。中日の先発村上の4球目、真芯でとらえた弾丸ライナーが左翼席へ一直線に消えていた。15号2ラン。今季1勝をマークしているが、無名の投手が「足がふるえてどうしようもなかった。
試合前のミーティングで長嶋がナインの前に立っていた。「皆さんと楽しくプレーしてきたが、今日が最後の公式戦となった。17年間、思い残すことも悔いも全くない。皆さんもいずれは引退という宿命を背負ってプレーしているのだが、どうぞベストを尽くして悔いのない選手生活を送ってください」
これだけ言うと長嶋はいつもと変わらない燃えるひとみでグラウンドへ飛び出していった。その雄姿にいたずらな感傷はみじんもなかった。
バットマンとしてすべての戦いが終わった。“V9ナイン”がわれさきにかけ寄った。一人一人の手をしっかり握った。王と二人、肩をたたき合う。二人の間に言葉はいらない。それだけで心が通じた。
つるべ落としの秋の日が西に落ちて、白球の飛び交ったグラウンドに夕やみが迫っていた。照明灯が消えた。静かにバットを置いた偉大なスターが、一筋のスポットライトにあざやかに浮かび上がった。そのひたいに、プロ野球を引っ張り続けた17年間の激戦の歴史がきざみこまれていた。
ふるえる声がうみ鳴りのように続く歓声と拍手をしずめた。
「みなさん、本当にありがとうございました…」別れの歌が静かに、悲しく流れていく。ともに喜び、ともに苦しみ抜いたナインの手を握りながらまた泣いた。
偉大な英雄が姿を消した。万人の心に強烈なイメージをしるして…。14日、後楽園球場。
盛大な拍手と見送りの言葉に涙が止まらなかった …試合後の一問一答
―今の気持ちは。
「17年間、白いボールに運命と人生をかけてきた。私は皆さんに“燃える男”と言われた。燃えるものはいつかは消える。その燃え方が激しければ激しいほど、消えるときは寂しい。感無量です。ナインの作ってくれた花道を歩き、4、5人まで握手したところで感情を抑えられなくなった。あとは涙が流れて何も分からなかった」
―いい引退試合だった。
「はい。今日ほどスタンドの拍手が胸にこたえたことはなかった。
―ホームランは打ったし、試合内容も良かった。
「最後だから1本ホームランを打ちたいと球場に着くなりしゃにむに練習した」
―思い出すことは?
「11度もチャンピオンになったこと。しかも王(わん)ちゃんと二人で中心になって働けたこと。これが一番意義のあることだと思う。忘れられない試合は、金田さんに4三振と抑えられたデビュー戦」
―引退決意はいつ頃。
「去年のオフからこの日を覚悟していた。打球が野手の正面をつくようになり、衰えを感じた。力があれば正面をついた打球も不規則バウンドしたりするもの。打てる球が打てなくなり、捕れる球が捕れなくなったのは寂しかったが、そのたびに川上監督の“自分との戦いに負けるな”という言葉を思い出し“違う方法があるはずだ”と工夫、研究し、今日までやってきた」
―楽しいこと、つらいこと、どっちの思い出が多いか。
「打者は良くて3度の成功、7度の失敗。だから、苦しい時の方が多かった。
―背番号3の今後は。
「背番号3は僕のものではなく、ファンのものであるような気がします。だから、一度球団に返し今後、新しい仕事につく場合は新しい背番号をちょうだいするつもりだ」
あいさつ全文
昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来今日まで17年間、巨人ならびに長嶋茂雄のために絶大なるご支援をいただきまして、まことにありがとうございました。
皆さまから頂戴いたしましたご支援、熱烈なる応援をいただきまして、きょうまで私なりの野球生活を続けて参りましたが、今ここに体力の限界を知るにいたり、引退を決意いたしました。振り返りますれば、17年間にわたる現役生活、いろいろなことがございました。その試合をひとつひとつ思い起こしますときに、好調時は皆さまの激しい大きな拍手を、この背番号3をさらに闘志をかき立ててくれ、また不調のとき、皆さまの温かいご声援の数々にきょうまで支えられてきました。
不運にも、我が巨人軍はV10を目指し、監督以下選手一丸となり死力を尽くして最後の最後までベストを尽くし戦いましたが、力ここに及ばず、10連覇の夢は破れ去りました。
私はきょう、引退をいたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です。
今後、微力ではありますが、巨人軍の新しい歴史の発展のために、栄光ある巨人の明日の勝利のために、きょうまで皆さまがたからいただいたご支援、ご声援を糧としまして、さらに前進していく覚悟でございます。
長い間、皆さん、本当にありがとうございました。