戦後の日本を象徴するスーパースターで、「ミスタープロ野球」と称された巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さん=報知新聞社客員=が3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で死去した。89歳だった。

現役時代は王貞治とのON砲で巨人を不滅のV9へと導き、監督としても、1994年の「10・8決戦」など多くの名場面を演出して5度のリーグ優勝、2度の日本一に輝いたミスター。歴代の担当記者が、永遠の別れを悼んだ。

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 長嶋さんに憧れて野球を始め、長嶋さんに会いたくて、この世界に入った。現代でいえば、大谷級のスーパースター。大谷が投打の二刀流なら、長嶋さんは攻守の二刀流だった。勝負強い打撃はもちろんだが「歌舞伎の所作を参考にしました」という守備は華麗で、そのプレーを見たくて球場に足を運んだファンがたくさんいた。銭湯の下駄箱3番札が争奪戦だった、というのは都市伝説化しているが、それも本当の話だ。

 私の報知入社は86年。「長嶋さん、もう一度ユニホームを着てくれ」と、ずっと念じていたら、本当にそうなった。93年に13年ぶりの球界復帰。春の宮崎キャンプは連日人であふれ、全国から集まったファンの車の列で周辺の交通がマヒした。長嶋さんだけではなく、長嶋さんを追う報知の巨人取材班もテレビのドキュメンタリー特番カメラに追いかけ回された。

後にも先にも、キャンプであれだけ人があふれ返ったのは例がないはずだ。

 それだけ、みんなが待ち望んでいたミスターのカムバック。12年間の浪人生活では、巨人以外からも監督就任の要請があり、特に大洋とは契約成立寸前まで話が進んだという。その真意を聞いたとき「そんなことありましたか。ヘヘヘ…」ととぼけたが、ひと呼吸を置いたあと「やっぱり、ジャイアンツが好きなんですよ」。最後の最後まで巨人を愛し続けた。そして、巨人と同じぐらいに報知も愛してくれた。

 私の巨人キャップ時代(97~98年)はチームも低迷。担当記者からの発信ではなかったが、監督後任問題などで大きな誤報を2つやらかした。そんなときは決まって、他社のいないときにこっそりと呼ばれ「報知の記事はみんなが楽しみにして見てるぞ。私も含めて」と励ましてくれた。93年の復帰フィーバー、94年の10・8決戦、96年のメークドラマ、そして2年間のキャップ時代。

報知の担当記者として長嶋野球を追いかけた5年間は、今でも私の宝ものだ。(1993~94年、96~98年 巨人担当・尾谷和也)

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