戦後の日本を象徴するスーパースターで、「ミスタープロ野球」と称された巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さん=報知新聞社客員=が3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で死去した。89歳だった。
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長嶋さんと言えば、その独特な『ミスター語録』で有名だった。会話の端々に出てくる擬音語や和製イングリッシュなど、一般的には適当に『カンピューター』を作動させてるだけと思われていたが、実は自分なりに練りに練っていたことを、我々番記者は知っている。
ある年のオープン戦の帰途、列車に同行取材していたら、ミスターから「重大発表がある」と呼び出されたことがあった。各社のキャップが連結部で身構えていると、「今年の打線の愛称を決めた」という。それが何とも珍妙なネーミングで、これは使えない。その場の空気が重くなったのを感じたミスターは、「え、ダメ? そうか…」としょげた様子で自席へ戻ってしまった。その日の試合があまり記事にならない内容だったので、ネタを提供してやろうというサービス精神によるものだった。
97年のオフ、僕は札幌支局に転勤することになり、宮崎で秋季キャンプを張っていたミスターにあいさつに行った。前年の「メークドラマ」Vの裏で大騒ぎになっていた清原のFA移籍、落合退団騒動で当時の部長と折り合いが悪くなってのことだったが、宮崎市民球場の一塁側ベンチに僕を招き入れてくれたミスターは、「(会社を)辞めてはいけないよ」とやんわり釘(くぎ)を刺した上で、「カンに耐えなくてはいけませんよ」とアドバイスをくれた。
寒に耐える? 北海道だから? ミスターにしては珍しく平凡なことを仰(おっしゃ)るなと思っていると、「僕もね、カンに耐えましたよ」と遠くを見るような目をされた。
東京を離れる=野球担当を外れるということに、ミスターは自分の浪人時代を思い出したのだ。80年オフに監督を解任され、92年オフに復帰するまでの12年間。ミスターはキューバや中国など世界中を飛び回った。端から見れば激動と言って良い時期だったはずなのに、ミスターにしてみれば、「野球に直接、携わっていなかった」という一点で、「閑=ひま、しずか」だったのだろう。野球以外はすべて雑事。それが長嶋茂雄だったのだ。(1992~96年 巨人担当・鈴木憲夫)