1980年秋。長嶋茂雄は「男のケジメ」の名セリフとともに巨人の監督を退任。

慣れ親しんだYGマークのユニホームに別れを告げたミスターだったが、世間は、その「第二の人生」についての興味で持ちきりとなった。

 実際、さまざまなうわさ話がメディアをにぎわせた。

 「来春早々にアメリカに野球留学する」「ドジャースで野球修業する」などなど。ミスターは巨人退団後、しばらくして報知新聞紙上に「男のケジメ」という独占手記を寄せた。そこで、うわさの類いを否定し、一方で「物心がついてから野球一筋、こんな男に野球以外の世界を含めて、右か左かすぐに進路を取れ、というわけにいくはずもない」「今、こんな立場に置かれたのも長い人生の巡り合わせ。ひとまず、休養の時に違いない。監督になって険しくなったといわれたこの顔から、シワの一本も伸ばすような気持ちで自省の時間としたい」と心境をつづっている。

 だが、「長嶋茂雄」を世の中が放っておくはずがない。

 この年のクリスマス・イブには、セイコー・服部時計店が契約金3000万円でCM契約を結んだ、と発表した。CM契約に関しては、巨人時代から「バーバリースーツ、ミスターサンヨー」のキャッチコピーで有名だった、アパレルの「三陽商会」の顔となっていたが、退団後はセイコーが第一号。最高級腕時計「クレドール」のイメージキャラクターとして白羽の矢が立ったのだ。翌81年2月には、自動車メーカー・トヨタの乗用車「コロナ」のCMに登場することも決まり、こちらは契約期間1年で出演料は5000万円―と報じられた。

 「文化人・長嶋茂雄」としての活動は81年2月のキューバ訪問から始まった。

 同国の駐日大使が野球のファンであり、「長嶋氏にぜひ、キューバの野球を見てもらいたい」と招聘(しょうへい)を打診。同国スポーツ省が全面的にバックアップして実現した。国技である野球をはじめ、バレーボール、ボクシング、陸上などの施設、トレーニング、試合を視察。「キューバの野球に関心があり、彼らはどんな練習をしているのか、どんな環境で育ったのかをぜひ知りたい。野球以外のスポーツ全般についても見たい」と語り、成田―バンクーバー―メキシコシティ経由のキューバ入りという長距離の旅程だった。

 6月には、今度は中国を訪問。こちらも中国棒球協会の招きによるもので、日本と中国の野球界がコミッショナーレベルで交流するための特使という役割だった。VIP級の歓迎を受けたミスターは、技術指導では約8か月ぶりにユニホーム姿を披露、自ら走り、ノックをし、自称する「グラウンドの人」を実践した。

 世界を股にかけての活動はその後も続く。

 初のMLBワールドシリーズ観戦(81年10月)、韓国プロ野球での講演(82年1月)、カナダ・モントリオールで開催された「国際野球祭」出席(同7月)、バチカン市国でのヨハネ・パウロ2世への謁見(同9月)、徳川家一族の文化財がロサンゼルスで展示された「将軍の時代展」の実行委員役(83年12月)、日本テレビ系「24時間テレビ 愛は地球を救う」に協力してのエチオピア難民キャンプ訪問(85年7月)。88年からはNFLのスーパーボウルを現地取材するなど、非常に多岐にわたった。

 また、スポーツ界最大の祭典である五輪は、84年のロサンゼルス、88年ソウル、92年バルセロナと3大会連続して現地に入って取材。当時、最も印象に残っているアスリートはカール・ルイスだと話していたが、交流も深く、犬好きのルイスに長嶋家の子犬をプレセントした逸話もある。また、ヒューストンの自宅にも招かれ、母・エリザベスさんの手料理を振る舞われたこともあった。91年、東京で開催された世界陸上では、日本テレビのリポーターを務め、ルイスに対して「ヘイ!カール!」と叫んだのも、また有名な話だ。

 88年暮れには「世界の子供たちに夢を」という趣旨のもと、ボランティア組織である「国際児童交流財団WAVE2000」を発足させた。メンバーにはルイスをはじめ、米女優のブルック・シールズも名を連ねるなど、文化人・長嶋茂雄が培ってきた幅広い人脈がうかがえた。

 前述したように、ミスターは自らを「グラウンドの人」と呼んだ。その言葉通り、浪人時代の12年間も世界中を実際に歩き、学び、感じた。いわば「スポーツ友好大使」的な役割を担っていたと言える、文字通りの“充電期間”だった。

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