戦後の日本を象徴するスーパースターで、「ミスタープロ野球」と称された巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さん=報知新聞社客員=が3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で死去した。89歳だった。

現役時代は王貞治とのON砲で巨人を不滅のV9へと導き、監督としても、1994年の「10・8決戦」など多くの名場面を演出して5度のリーグ優勝、2度の日本一に輝いた。国民栄誉賞も受賞し、多くのファンに親しまれたヒーローが栄光の人生の幕を閉じた。葬儀・告別式は近親者のみで執り行われ、喪主は次女・三奈(みな)さん。後日、お別れの会が開かれる。

 「ミスタープロ野球」が永遠の眠りについた。この日午前6時39分に長嶋さんが肺炎のため亡くなったと、読売新聞グループ本社、読売巨人軍、個人事務所「オフィスエヌ」が連名で発表した。89歳。栄光とドラマに彩られた生涯だった。

 近い関係者によると、長嶋さんは22年9月に自宅で尻もちをついた際に後頭部を打って緊急入院。以降、都内の病院で療養生活を送ってきた。「また球場でファンの前に姿を見せたい」との一心でリハビリに取り組み、熱心さで医療スタッフを驚かせた。その後もたびたび東京Dを訪れて巨人ナインを激励し、愛情を注いできたが、今春になり病状が進行。

5月初めには一時、集中治療室(ICU)へ入るなど、予断を許さない状況となった。

 一度は回復の兆候を見せたが、最近になって再びICUへ。面会できるのはごく近い関係者に限られ、懸命の措置が続いていたという。ひつぎを乗せた乗用車は昼過ぎに病院を出発。献身的に闘病を支え、この日くしくも57歳の誕生日を迎えた三奈さんが助手席で寄り添った。車は午後1時20分頃に田園調布の自宅に到着。遺族が沈痛な面持ちで報道陣に向かって一礼した。約10分後には盟友のソフトバンク・王球団会長らが弔問に訪れ、10分ほど滞在して別れを惜しんだ。王さんは「全てを乗り越える姿勢で、退くということのない人生だったと思う。こういうことは誰にでも来る日だろうけど、一番来てほしくない人に来ちゃった」と、悲しみをこらえて話した。

 「野球というスポーツは人生そのもの」と表現した長嶋さん。戦後の球界に彗(すい)星のごとく登場したその歩みは、プロ野球の発展にそのまま重なる。

 千葉県出身。佐倉一高(現佐倉高)から立大へ進み、当時の東京六大学記録となる8本塁打をマークし、1958年、鳴り物入りで巨人軍に入団した。開幕戦では国鉄のエース・金田正一の前に4打席連続三振の衝撃デビュー。しかしルーキーイヤーのこの年、29本塁打と92打点で2冠に輝き、新人王に選ばれた。2年目の59年6月25日、後楽園で行われたプロ野球初の天覧試合で、宿敵である阪神・村山実から劇的なサヨナラアーチ。キャリアのハイライトのひとつとなった。

 大舞台になるほど底力を発揮する勝負強い打撃と、ダイヤモンドを駆け巡る躍動感。プロ野球に変革を起こした。「スターというのはみんなの期待に応える存在。でもスーパースターの条件は、その期待を超えること」。歌舞伎から着想を得たという、三塁から送球する際に右手をひらひらと揺らす独特の動きは、平凡なゴロをショーに変えた。「僕はヘルメットの飛ばし方まで研究した」と、空振りさえエンターテインメントにした。

高度経済成長期で、テレビが一般家庭に普及。ファンの目線を意識し、旧来の野球に「魅せる」要素を加え、国民的スポーツへと押し上げた。

 59年に入団した王と、史上最強の「ON砲」を形成して65年から73年の日本シリーズ9連覇、いわゆる「V9」に貢献。球界の盟主の座を不動のものとした。74年に現役を引退するまで首位打者6度、本塁打王2度、打点王5度、MVP5度。引退試合では「我が巨人軍は永久に不滅です」という伝説的なスピーチで、ファンに別れを告げた。

 監督としても、数々の名シーンを演出した。新人指揮官だった75年には球団史上初の最下位という屈辱も味わったが、浪人生活を挟む2期15年で5度のリーグ優勝と2度の日本一に導いた。94年の「10・8決戦」は中日との最終戦で勝った方が優勝という世紀の一戦だった。試合前に「勝つ! 勝つ! 勝つ!」と連呼してナインを鼓舞し、「国民的行事」と位置づけたゲームに完勝。現役時代さながらの勝負強さを見せつけた。96年は広島との11・5ゲーム差をひっくり返す「メークドラマ」でリーグ制覇。

00年はダイエー・王監督との夢の「ON対決」となった日本シリーズを制した。

 監督復帰直後の92年ドラフト1位で自ら引き当てた松井秀喜とは、特に濃密な師弟関係を築いた。掲げたのが「4番1000日計画」。毎日マンツーマンで素振りを繰り返し、球史に残る長距離砲を育て上げた。

 01年に巨人の監督を勇退した後、日本代表監督に就任。04年アテネ五輪で金メダルを目指した。しかし、本番を控えた同年3月に病魔が襲った。脳梗塞(こうそく)。入院は1か月に及んだ。右半身に麻痺(まひ)が残り、五輪でタクトを振る夢は果たせなかった。

 だが、ミスターは不屈だった。壮絶なリハビリに耐え、公の場にカムバック。

不振の選手がいれば、自ら出向いて指導を行い、熱い言葉で背中を押した。

 13年には多大な功績に対し、国民栄誉賞が贈られた。まな弟子の松井さんとの2人での受賞だった。同年5月5日の広島戦(東京D)前に行われた授与式では、長嶋さんが永久欠番の「3」、松井さんが「55」のユニホームに袖を通し、打者・長嶋VS投手・松井の“師弟対決”が実現。左手1本のスイングが感動を呼んだ。

 病魔と闘い、その都度克服するさまは、多くの人々を勇気づけた。18年7月には胆石の治療のため、約5か月入院。それでも21年7月23日の東京五輪開会式では、盟友の王さん、松井さんとともに聖火ランナーを務め、力強い足取りで希望のともしびをつないだ。同年10月には球界で初めて文化勲章を受章した。

 近年は公の場でも車いすを使うようになっていた。療養の支えは、巨人の後輩たちだった。24年からまな弟子の一人である阿部監督が1軍監督に。

戦いぶりに一喜一憂し、就任1年目でのリーグ制覇を誰よりも喜んでいた。同年5月3日の「長嶋茂雄デー」にはサプライズで東京Dに登場し、大歓声を浴びた。今年3月15日の巨人―ドジャースのプレシーズンゲームでは極秘裏に東京Dを訪問。SNSにアップされた大谷翔平との2ショットが、最後の公での姿となった。

 さっそうとした姿に憧れ、プロ野球選手を志した少年がどれだけ多かったことか。天性の明るさ、独特の感性から放たれる言葉の数々。敵も味方もなく、誰もがその引力に、吸い寄せられた。

 王さんがかつてこんなふうに評したことがある。「例えるなら、燦然(さんぜん)と輝く太陽。本当に特別な、唯一無二の存在なんだ」。野球を愛し、野球に愛された栄光の男。刻み込んできた記憶は、永久に不滅だ。長嶋さん、ありがとう。

 ◆長嶋 茂雄(ながしま・しげお)1936年2月20日、千葉県生まれ。佐倉一高(現佐倉高)から立大を経て、58年に巨人入団。74年現役引退。75年監督に就任し80年退任。93年に復帰し、2001年を最後に勇退。88年、野球殿堂入り。13年に松井秀喜氏とともに国民栄誉賞を授与された。21年、野球界で初めて文化勲章を受章。

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