元巨人・松井秀喜氏(50)=ヤンキースGM特別アドバイザー=が3日、恩師の長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督=報知新聞社客員=の訃報(ふほう)に悲しみにくれた。92年のドラフトで4球団競合の末、長嶋さんが“当たりくじ”を引いたことから始まった師弟の物語。

野球への熱意を引き継いだまな弟子として、ミスターの思いを次の世代へとつないでいく。

 いつかは来ると覚悟を決めていた日が、ついにやってきてしまった。松井氏にとって、長嶋さんの死去の衝撃は計り知れない。現役引退後、「今でも『おい松井、素振りやるぞ』という監督の声がはっきりと耳に残っています」というほどに濃密な時間を過ごした。

 すべては1992年11月21日、都内のホテルで開かれたドラフト会議から始まった。巨人は高校通算60本塁打をマークし、同年夏の甲子園で5打席連続敬遠という伝説の主役となった星稜の松井秀喜を指名。中日、阪神、ダイエーとの競合となり、抽選に臨んだのは巨人監督に復帰したばかりの長嶋さんだった。抽選箱の中に最後に残っていた「交渉権確定」と記されたくじを引いたミスターはサムアップ。阪神ファンだった松井氏も、自分が生まれた74年に現役引退したミスターとの運命を感じた。初対面で肩をたたかれながら「松井君はアメフットの選手みたいにデカいね!」とかけられた言葉で、熱狂的な阪神ファンだった松井氏の心はほどけていった。

 ドラフト当日の日記に「球界を代表するホームランバッターに松井を育て上げるのが、自分に課せられた使命」と記した長嶋さんは球界を代表する4番に松井氏を育てるべく「1000日計画」を立てた。指揮官が選んだのは素振りの特訓。

本拠の東京D、遠征先の球場や宿舎。都内のホテルの一室、長嶋さんの自宅…。2人だけの空間にはバットが空を切る音が響き、ミスターの納得する「ビュッ」という独特の高音が出るまでOKが出なかった。

 入団3年目、95年8月25日の阪神戦(甲子園)で、巨人の第62代4番が実現。4番に定着した2000年以降も長嶋さんとの素振りは続き、松井氏がヤンキースに入団した03年4月には、ニューヨークの名門「プラザホテル」の最上階の一室で、バットを振り込んだこともあった。

 長嶋さんは守備力や野球選手としてのたたずまいも、松井氏に対して高いレベルを求めた。松井氏は三塁手へのこだわりもあったが、長嶋さんは外野コンバートを命令。理想型はヤンキースで活躍した名外野手のジョー・ディマジオだった。41年には56試合連続安打の大リーグ記録を樹立するなど、強打の外野手として3度のMVPに輝きヤ軍黄金期を支えたスター。長嶋さんに何度も「ディマジオのような品格のある選手を目指せ」と求められた松井氏は、三塁への未練を胸の奥にしまって、それに応えた。

 02年オフ、松井氏はFA権を行使してメジャーに挑戦する意向をミスターに伝えた。プロ野球の将来に不安を覚えたミスターだったが、快く後押しし、決断を尊重した。

13年にはそろって国民栄誉賞を授与され21年の東京五輪開会式(国立競技場)では、ソフトバンクの王貞治球団会長とともに3人で聖火ランナーを務めた。自身の野球選手としての道のりを振り返り「長嶋監督と出会っていなければ、あの素振りがなければ、プロとしての私はなかった。気構えや練習、試合への向き合い方など、大切なことはすべて、長嶋監督から学びました。教えは、人としての大きな支えにもなりました」と最大の恩義を感じている。今後は指導者としての後進の育成や、日米で主催している野球教室の開催などを通して子供たちにミスターの遺志を伝えていくことが重要な責務となる。松井氏の心の中でも、ミスターは永久に不滅だ。

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