1979年のドラフトで巨人入りした岡崎郁氏(64)。法大入りを決めていた18歳の少年を、電撃指名とサプライズ訪問で翻意させたのが、長嶋茂雄さん(享年89)だった。

46年前のあの日を、感謝とともに振り返った。(取材・構成=湯浅 佳典)

 岡崎氏にはプロ10球団から誘いがあったが、法大進学を決めていたため、全球団のスカウトへ断りを入れていた。しかし、79年11月27日のドラフト会議で巨人から3位指名を受けた。

 「指名されるなんて考えていなかったので、第一印象は困ったな、大変なことになるな、という思いでした。法政か巨人か、どちらかを断らないといけないわけですから」

 約2週間後に、法大の淡路島セレクションがあった。それに参加すれば事実上、入学が決まる。その前々日、大分商での授業中に自宅から連絡があったという。

 「理由は言わず、『とにかく帰ってこい』と言われたので急いで帰ったら、玄関に大きな靴が2つあった。そして居間に長嶋さんがいる。ビックリどころか、何も考えられなかった。大きい、デカイ人だなと思っただけでした。父(新市さん)と、それから何より、おばあちゃん(チカヲさん)が舞い上がっていたのを覚えています」

 入団交渉が始まる。

夏の甲子園でのプレーを長嶋さんが後楽園のサロンでたまたま目にして、左翼線に二塁打を放った岡崎氏の打撃にほれこんだという。ドラフト会議の席上、長嶋さんの一存で指名が決まった。

 「長嶋さんが来るという連絡そのものがなかった。あれば来てもらうことを断っていたと思う。そりゃそうでしょ、大分の田舎まで長嶋さんが来てしまったら、断ることなんかできるわけがない。18歳の子供でも、うっすら分かってました。で、やっぱり…」

 話は、契約金のこと、入団してからの寮生活、背番号の話へとドンドン進んでいく。

 「僕は、ただただ聞いているだけ。野球人として長嶋さんにNOを言うことなんてできない。いや、神の声ですからね、しちゃいけないと感じていました」

 法大の鴨田勝雄監督(当時)に、長嶋さんの方から一本、連絡を入れてもらうようにお願いした。

 「『分かりました』と長嶋さんが言われた瞬間に、こちらは『お世話になります』と頭を下げました。返事を先送りにすることなんてできませんでした」

 体がまだできていなかった岡崎氏は、84年に肋膜(ろくまく)炎を患い、練習生になるなど1軍の戦力になるのに時間を要した。

しかし、80年に退任した長嶋さんが、92年秋に監督復帰するまでの間に主力に成長した。90年の西武との日本シリーズでは4連敗を喫したが、自身は敢闘賞を受賞。その際に発した「野球観が変わる敗戦だった」というセリフは有名だ。長嶋さんの第2次政権(93~2001年)の93年8月には、3試合で4番も任された。

 「でも、もう僕の力も衰えていました。そして96年には引退するんですが、最後に田園調布の自宅に伺って『今年で辞めたい』と自分の口で伝えることができました。巨人に入れてもらって、辞めるときも対面で話ができた。最高のケジメをつけられました」 長嶋さんが亡くなって、日がたつにつれて、ショックや悲しみがかえって募る。

 「わざわざ大分まで来てもらったところからスタートして、いろいろな局面で、特に苦しい時に長嶋さんが心の支えになってきました。長嶋さんが敷いてくれたレール、長嶋さんに導いてもらった人生はいいに決まってる。これからも、きっとその気持ちは続くと思う。感謝以外の何か、もっとふさわしい言葉ってないのかなあと思っていますね」

 ◆岡崎 郁(おかざき・かおる)1961年6月7日、大分生まれ。

64歳。大分商3年時に春夏連続甲子園出場。79年のドラフト3位で巨人の指名を受ける。87年から遊撃のレギュラーとなり、88年から背番号は「5」に。90年には三塁でゴールデン・グラブ賞を獲得。日本シリーズでも敢闘賞を受賞した。93年には第58代4番打者を経験。96年に引退後は、2軍監督、1軍ヘッドコーチ、スカウト部長などを歴任した。右投左打。

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