◆スポーツ報知・記者コラム「両国発」 

 7月15日付の本紙で懐かしい名前を見つけた。藤田修平さん。

1998年夏の甲子園大会に出場した宇部商(山口)の2年生エースで、2回戦・豊田大谷(東愛知)戦で210球の熱投の末、大会初のサヨナラボークで敗れた左腕だ。長男・琉平投手(3年)が父と同じ宇部商の背番号「1」をつけて山口大会初戦で好投。その記事を読み、私は同校を取材した記者1年目の夏を思い出した。

 98年8月16日。大会第11日だった。藤田投手は17歳の誕生日だった10日の1回戦・日大東北(福島)戦で4回無失点と好救援し、豊田大谷戦で聖地初先発。12時5分に始まった第2試合は、宇部商が9回に追いつかれ延長戦へ。15回無死満塁、エースが投球動作を中断した時だ。球審がボークを宣告。三塁走者が生還し、熱戦は3時間52分で突然、終わった。左腕は号泣。球場全体が騒然となった。

 新人記者の私にとっても忘れられない日となった。サヨナラの瞬間は「この出来事を自分の文章力で書けるのか」と不安に襲われた。その後は無我夢中。藤田投手が「よく覚えていません。できるなら、もう一度やり直したい」と語った言葉や、3年生らの話を聞ける限り聞いた。「ルールをきちっと適用した」との球審の談話は同僚記者から受け取った。取材後は執筆に没頭。初めて任された長文と“闘った”。次の試合で横浜(東神奈川)の松坂大輔投手が鹿児島実・杉内俊哉投手から本塁打を放ったことも、後で知った。何とか時間内に入稿。記事となり、前へ進めた気がした。

 あの日から丸27年。

多くの取材を経験して今思うのは、あの時の失意の中でも話してくれた藤田さんへの感謝だ。今夏は実現しなかったが、いつか甲子園で母校の戦いを見守る藤田さんにあいさつし、近況などをお聞きしたい。(野球デスク・田村 龍一)

 ◆田村 龍一(たむら・りょういち)1998年入社。気がつけば高校球児の親御さんより年上に。

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