左腕から投げ下ろす速球とカーブを武器に第1次長嶋監督時代の中心投手だったのが新浦寿夫さん(74)。史上初の最下位に沈んだ75年から長嶋茂雄さん(享年89)と歩んだ濃密な時間を振り返った。

(取材・構成=湯浅 佳典)

 長嶋監督が就任し、巨人史上初の最下位に沈んだ75年。入団7年目の新浦は、川上哲治監督の時代はさしたる実績も残していなかったが、新監督は起用し続けた。先発14試合(2勝7敗)、リリーフで23試合(4敗)マウンドに上がり、2勝11敗の成績に終わった。

 「後楽園のブルペンはスタンドから見えたんです。準備をしていると『また、おまえが投げるのか』とヤジが飛んでくる。投げたくないですよ。監督と目が合うと投げさせられるから、球場では絶対に監督の前に立たないようにして、後ろに隠れてばかりいましたね。それでも、次の日に備えてブルペンにいたら、『ピッチャー新浦』のアナウンスがかかる。この年は僕だけじゃなく、チーム全体の調子が悪かったけど(エース堀内も10勝18敗)、最下位はすべて僕のせい、完全な戦犯扱いでしたね」

 監督も期待するからこその起用。それに応えなければ、とオフに決心をした。

 「酒をやめるか、たばこをやめるか悩んだ末に、たばこをやめたんです。そうしたらキャンプ中盤に監督に呼び止められた。

『どうした、新浦。体がブクブク太ってるじゃないか?』。禁煙を伝えると烈火のごとく怒られた。『何を言ってる。勝負の世界、勝ち負けは俺の責任だ。お前は余計なことは考えるな。たばこなんて、ケツの穴からヤニが出るまで吸え!』って」

 喫煙を再開したが、食事やトレーニングで筋肉の質は良化。76年に11勝(11敗5セーブ)、77年11勝(3敗9セーブ)で連覇の立役者になる。

 「特に褒めてもらった覚えはない。でも、負けても負けても使ってもらったからこそ、活躍できるようになった。恩返しの気持ちで、壊れるまで十分に使ってください、という思いでいましたね」

 言葉通り、78年には130試合中63試合に登板し、15勝(7敗15セーブ)とフル回転。同年オフに江川卓が入団してきた。

 「監督室に呼ばれ、こう言われました。『俺はエースを作りたい。江川をエースにしたいんで、お前は後ろ(抑え)に回ってくれ』。えっ? エースは俺じゃないのか? 俺じゃダメなのか?って感じですよね」

 江川が初勝利を挙げた79年6月17日の広島戦(後楽園)でセーブを飾ったのが新浦だった。この年は先発28試合を含む45試合に投げ、規定投球回の倍近い236回1/3で15勝(11敗5セーブ)。75年から5年で239試合、計866回2/3も投げては、さすがに体がもたない。

 「80年に肘がパンクしました。だましだまし投げていた藤田監督時代の83年の終盤に、珍しく長嶋さんから電話があった。トレードかなと思って食事の席にいったら、『お前、韓国に行け』と。そこには韓国のサムスン・ライオンズの人も同席されていて、もう決定でした」

 韓国3年間で54勝を挙げ、87年から大洋に移籍。88年には10勝を挙げカムバック賞にも輝いた。ダイエー、ヤクルトにも移籍後の92年オフ、長嶋監督の巨人復帰が決まる。

 「肘に負担がないような投げ方もできるようになり、まだ役に立つかもしれないと思って、こちらから監督に電話をしました。どうですか、僕は必要ではないですか?と。監督の答えはあっさりしてましたよ。『左は宮本(和知)がいるからねえ』。それで終わり、引退です」

 第1次政権の功労者。先発に抑えに体が壊れるまで投げ続けてきた。江川入団時も含めて、プロとして指揮官の意向を受け入れ続けた。

 「長嶋さんは巨人の全てを背負っているわけですから。次、またその次を常に考えていたんだろうと思います。確かに冷たいかもしれない。けれど、それが現実であり、長嶋流。仕方がないことだと思いますね」

 ◆新浦 寿夫(にうら・ひさお)1951年5月11日、東京都出身。

74歳。静岡商で68年夏の甲子園に出場、準優勝投手に。高校を中退し同年9月に巨人入り。77、78年に最優秀防御率。78年は最優秀救援投手、79年は最多奪三振。韓国サムスンでプレーした後、87年に日本に復帰し大洋、ダイエー、ヤクルトに在籍。通算592登板で116勝123敗39セーブ、防御率3.45。81年から登録名は壽夫。

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