巨人のライバルだった名選手の連続インタビュー「巨人が恐れた男たち」。第8回は元中日の谷沢健一さん(77)だ。

1974年に巨人の10連覇を阻んだ中日の主軸であり、持病のアキレス腱(けん)痛を克服してカムバックを果たした不屈のスラッガー。6月3日に永眠した長嶋茂雄さんとの縁や、復活の裏にあった「酒マッサージ」との出会いまで、「喜怒哀楽」を語った。(取材・構成=太田 倫)

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 1974年の優勝当時の監督はウォーリー与那嶺(与那嶺要)さん。ウォーリーさんは、川上哲治さんが監督になったときに、巨人を出されている。だから川上監督へのライバル意識は強烈だった。「テツに負けるな!」って呼び捨てにして、巨人に勝つと報奨金を上げてくれた。決勝打や完封なら10万円とかね。当時では大きい金額だよ。

 V9時代の巨人はONの前に、柴田勲さんのような足の速い選手が1、2番にいた。だからナゴヤ球場のグラウンドキーパーと相談して、なんとかスタートを遅らせることができないかってことで、一塁付近の土に水をまいて、ベッタベタにしたこともある。柴田さんは「谷沢、これ何だよ? 水まきすぎじゃねえの?」って言っていたよ(笑)。でも、それくらいやらないと巨人には勝てなかった。

 74年は、優勝マジックがひとケタになったあたりからプレッシャーで、グラウンドから逃げ出したいくらいだった。73年には阪神が優勝目前で、浮足立った末に巨人に逆転を許した【注3】。それが教訓になった。優勝の喜びは格別だったね。我々は巨人を倒すためにやってきたから…。

 現役時代、お手本になったのはやっぱり長嶋さんだった。ゲーム前に、いつも一人でポールからポールまで、グラウンドを斜めに突っ切ってダッシュするんだ。他の選手が打撃練習中で、ボールが当たったらどうなるんだって思うけど(笑)。そのスピードたるや、すごかった。暑い盛りでも、骨の髄から汗を出して、試合に臨んでいく。その準備の仕方が勉強になった。

 あんなに跳びはねるようにグラウンドを駆け回る人を初めて見た。

激励の色紙から始まって、よく打たれて、ヒットと思った打球もよく捕られた。けど、同じプロ野球という土俵に上がれたのは幸せだったね。

 【注3】73年のセ・リーグは阪神が残り2試合でマジック1としたが、引き分けでも優勝という10月20日の中日戦に2―4で敗戦。勝った方が優勝という22日の巨人戦も0―9で大敗。巨人がV9を達成した。

 ◆4年目にキャリア唯一1試合5安打 巨人・堀内まさかの攻略法

 谷沢さんが思い出深い巨人戦の一つに挙げたのが、入団4年目の73年7月15日の後楽園。キャリア唯一の1試合5安打(5打数5安打)をマークした試合だ。

 この前日、有楽町の焼き肉店で偶然にも同学年の巨人・堀内恒夫と居合わせた。巨人のエースはビールをグイグイ飲み干しながら、豪快にも自分の攻略法を指南した。ポイントは2種類のカーブだった。

 「『お前は膝の下から落ちる方を打っているけど、それじゃダメ。顔付近の高さのカーブの、落ち際を打ったら打てるよ』ってね」

 驚いたことに、翌日の先発は当の堀内。

攻略法を実践した谷沢さんは、3本のヒットを連ねて7回途中での降板に追い込んだ。「堀内は『おかしいな…』って首をかしげてた」というが、後年、当時を振り返って「あれはお前を試したんだ」とあくまで強気だったとか。「堀内っぽいでしょう?」と谷沢さんは笑っていた。

 【取材後記】 「哀」の章でも語っているが、谷沢さんのアキレス腱痛との闘いは壮絶を極めた。

 「当時の医療では手術が難しい部位だった。治すために民間療法も含めて、30種類以上はやったかな」

 カミソリで空中を切るという呪術的な方法に身をゆだねてみたり、痛みに効くという米粒をもらって飲んでみたり…。「そんなバカなって思ったけどね(笑)」。高名な整形外科医の家に菓子折り持参で訪ねていったこともあるという。

 すべては今だから笑って話せること。「神様にすがりたいような気持ちだったから…」。そのいちずさに、酒マッサージという救いの手が差し伸べられたのだろう。(野球デスク・太田 倫)

 ◆谷沢 健一(やざわ・けんいち)1947年9月22日、千葉・柏市生まれ。

77歳。習志野3年時の65年、第1回ドラフト会議で阪急から4位指名を受けるが、早大進学。69年ドラフト1位で中日入団。70年新人王。76、80年首位打者。ベストナイン5度。81年9月20、21日の巨人戦では4打席連続本塁打。85年10月23日の広島戦(広島市民)で2000安打、86年オフに引退。94、95年には西武で打撃コーチを務めた。左投左打。

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