巨人のライバルだった名選手の連続インタビュー「巨人が恐れた男たち」。第9回は元広島、巨人の川口和久さん(66)だ。

広島時代には「巨人キラー」として球団最多の通算33勝。FAで移籍した巨人ではリリーフに転向し、1996年の「メークドラマ」を完結させる胴上げ投手にもなった。幼少期から大ファンで、巨人在籍時の監督だった長嶋茂雄さんとの思い出や、引退寸前からの復活劇まで「喜怒哀楽」の記憶を掘り起こした。(取材・構成=太田 倫)

 若い頃は血の気も多かった。プロ2年目の1982年だったかな、バッテリーを組んでいた達川光男さん【注2】とケンカしたことがある。当時は球種が真っすぐとカーブしかなくて、コントロールも悪かった。ちょっと投げれば打たれるっていう感じでね。

 ある試合で連打を浴びているうち、怒りがこみ上げてきた。達川さんのサインが気に入らなくなって、全部に首を振った。今思えば、自分の未熟さゆえの八つ当たりだったね。達川さんって相手の打者に話しかけるでしょう? 球種を教えてるんじゃないか、とか、そんな不信感もあって(笑)。もちろん、教えてるわけはないんだけど…。

 達川さんも気分はよくない。

 「サインが気に入らんのなら、好きなように投げてこい。ワシはもうサイン出さんぞ。真ん中に構えとくから投げてこい!」

 「先輩、それ捕れるんですか?」

 「お前のボールくらい捕れるわい!」

 売り言葉に買い言葉で、2試合ほどそんな感じで投げていた。

 当時のヘッドコーチに「お前ら何でケンカしよるんや!」と問い詰められた。「ちょっとサインが気に入らんくて…」と僕。「とにかく仲良うせい!」と怒られた。そのとき、達川さんは言い訳しないで、ただ「すいません」って言ってくれた。それを見た僕は、勝つために今のままじゃダメだなって思い直し、自分から謝った。

 そこからは、だんだんと息が合ってきた。あるとき、甲子園での阪神戦の最中に達川さんがタイムをかけてマウンドに来た。「カワ、今のションベンカーブじゃ通用しないから、カーブの練習しよう」。

それで全部カーブから入る配球にしてくれた。リリースポイントを意識して投げるようにアドバイスされて、実戦の中で練習した。速いカーブと遅いカーブの投げ分けを身につけるきっかけになった。別の試合では、投げたことのないフォークボールを要求されて、それがのちのち武器になるスクリューボールの原型になった。

 やっぱり野球は相手と戦わないとね(笑)。味方のキャッチャーと戦っていた僕は、まだまだレベルが低かったよ。

 【注2】巧みなインサイドワークとささやき戦術、ときにコミカルな言動で魅了した名捕手。99年、2000年には広島監督。

 ◆川口 和久(かわぐち・かずひさ)1959年7月8日、鳥取県生まれ。66歳。鳥取城北からデュプロを経て、80年ドラフト1位で広島入団。86年から6年連続2ケタ勝利。

87、89、91年に最多奪三振のタイトル獲得。94年オフにFAで巨人に移籍後は主にリリーフとして活躍。通算成績は435試合で139勝135敗、2092奪三振、防御率3.38。引退後は巨人で投手コーチを務めた。左投両打。

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