ゲストは先週に引き続き、
『1036号室』にお泊まりの漫画家:弘兼憲史さん。

弘兼さんは、早稲田大学在学中に漫画研究会に所属され大学卒業後は、松下電器産業株式会社(現:パナソニック株式会社)に就職されました。

本社で宣伝企画部門の販売助成部で3年間勤務されていて、代表作である『島耕作シリーズ』で主人公:島耕作が働いていた部署と同じです。

弘兼「私の経験をそのまま漫画にしたのが、島耕作です。」

辰巳「課長とか、係長まで行ってないでしょ?」

弘兼「そうですね。3年間しかいなかったので、ペーペーの頃です。でも、面白かったのが、1970年入社で大学初任給は、4万1000円だったんですけど次の年に8万超えて、3年目には12万5000円になりました!高度成長ですから、そういう時代でしたね。」

辰巳「そういう時代なら、普通会社辞めようと思わないでしょ~」

弘兼「ところが会社辞めて、下請けさんのデザイン会社さんと一緒になってフリーのイラストレーターとディレクターになったらあっという間に月収30万以上になったんで(笑) 当時の部長の給料以上になって、金銭的な苦労はありませんでしたね~他の苦労は多少ありましたけど...(笑)」

島耕作、誕生の軌跡!弘兼憲史が漫画家を目指したきっかけとは。...の画像はこちら >>

”漫画家は、なりたくてもなれない” 就職を目指した学生時代。

漫画家への憧れは、手塚治虫先生の漫画を読んでいた幼少期からだった、と振り返る弘兼さん。

しかし、中学生の頃には ”漫画家は、なりたくてもなれない仕事だ”と
漫画家になる夢は諦めてしまい、新聞記者を目指して早稲田大学に進学することを決めたそう。

進学後は、大ファンの 吉永小百合さん と同じ大学だったため、
よく利用されていた第二図書館に張り込み!
遭遇することにも成功されたとか(笑)

弘兼「のちに、吉永小百合さんにお会いする機会があってその時のことをお話したんですが、覚えてらっしゃいませんでした!当たり前ですよね~(笑)」

辰巳「そうでしたか(笑)昨日のことのように、鮮明な記憶ですね」

弘兼「本当、後ろから御光が指してましたよ!半端じゃなかった!」

企業からの大学指定制度や学部推薦なども多かった時代。
就職し会社員になろうと考えていた弘兼さんは、漫画研究会に所属しながらも、真面目に良い成績を取るように努めていたそうです。

そして見事、松下電器産業株式会社(現:パナソニック株式会社)へと就職を決めたのでした。

島耕作、誕生の軌跡!弘兼憲史が漫画家を目指したきっかけとは。

退路を経って、漫画家の道へ!きっかけは...

漫画家になりたいと思っていた気持ちを、合理的な考えで消していたものの業務で出会ったデザイナーさんたちが、必死に漫画を書き応募する姿を見て”俺も手仕事から始めなくてはいけない” と反省されたとか。

弘兼「1973年7月に、ボーナス貰って退職して、失業保険もらいながら初めてコマを切って、ストーリー漫画を書きました。漫画研究会の時は、似顔絵と1コマ漫画だけだったんです。今考えたら、無謀な挑戦...(笑)」

辰巳「え!学生時代にストーリー漫画やってて、腕があって辞めたのかと今の今まで思ってました!」

弘兼「同級生で立教大学には、西岸良平さん(代表作:『三丁目の夕日』『鎌倉ものがたり』など)同世代では明治大学には、かわぐちかいじさん(代表作:『沈黙の艦隊』、『ジパング』など)がいたんですけど、僕は何も書いてなくて(笑)会社員だと漫画を書く時間がないので、とりあえず退職ありきで...」

退職後、ストーリー漫画を賞へ応募をしたところ、1作目で見事入選!
1974年『風薫る』でデビューされ、プロの漫画家の道へと進まれました。

島耕作、誕生の軌跡!弘兼憲史が漫画家を目指したきっかけとは。

島耕作シリーズ誕生秘話!

デビュー後、『ハロー張りネズミ』や『人間交差点』など人気作を次々に生み出す中、『島耕作シリーズ』が誕生しました。

当初は、読み切りの予定で描いたものの、編集長の考えでタイトル変更!
シリーズ化が決まり、連載が始まっていったのだとか。

辰巳「この時代に、弘兼憲史さんという作家が登場するべくして登場したんじゃないかな、と思いますよね」

弘兼「運もあるかと思いますけど、確かに他の漫画家さんとは違うタイプの漫画家でしたね。『人間交差点』にしても、人間社会で苦しんでいる人にスポットライトを当てて。あんな暗い話を漫画にする作家いなかったですからね。」

辰巳「取材力と感覚が素晴らしくて、いつも作品を読んでいて勉強になります。」

取材から生まれる弘兼さんの作品は、いつもリアリティに溢れています。
これこそ、多くの読者の心を掴んでいる秘訣なのかもしれません。

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