朝鮮の文化を近代日本に紹介した民藝運動家の柳宗悦や陶芸家の河井寛次郎。彼らが1930年代に見た朝鮮の風景に憧れ、1970年に韓国の農村を訪れたのが写真家の藤本巧さんだ。

以来50年以上にわたり、韓国の人々と文化をフィルムに刻み続けてきた。

※本稿は、8月23日に駐大阪韓国文化院で行われた記念講演会とインタビューに内容をまとめたものです。

▼二十歳で訪れた隣国

 1949年島根県に生まれた藤本さんが初めて韓国を訪れたのは1970年。「人類の進歩と調和」を掲げた大阪万博の年だった。

 「当時の万博にも行きました。今回も行くつもりです。マスコミでは『韓国は日本より30年、50年遅れている』と言う人がいました。でも、それは文明の話で、文化は違うという思いで被写体に向かっていました。あの頃の韓国は独裁政権で、マスコミは韓国の学生運動のことで騒いでいたので、もっとソウルの現実を捉えるべきだ、田舎を撮影することに何の意味があるのか、と評価が低かったのです。」

 同年8月、二十歳の藤本さんは約1週間にわたる韓国の旅に出た。

 「フィルムの持ち込みは制限されていて、35本を精いっぱい使おうと思っていました。伊丹空港から韓国へ。当時、韓国ではコレラがはやっていて、ビザも要り、保健所に行って予防接種を受けるなど、手続きが必要でした。」

▼韓国人の心の中に生きた日本人

 韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる――。

藤本さんが初日に向かったのは、この言葉が刻まれた土盛りの墓。ソウル郊外の忘憂里(マンウリ)共同墓地にある浅川巧(1891-1931)のものだ。

 「うちの父の実家が出雲大社の宮大工をしていました。父は浅川伯教・巧兄弟を知っていて、弟の巧さんが営林署にいて木工が好きであったことから、巧という名前と生き方に興味を持ち、そのようになってほしいという思いで私の名前はつけられました。」

 山梨県出身の浅川伯教(1884-1964)は、朝鮮で教師を務めるかたわら陶芸に魅せられ、やがて古陶磁の研究者として民藝の価値を広めた。弟の巧は林業技師であったため朝鮮の荒廃した山々の緑化に尽力しつつ、兄とともに朝鮮の民芸品を日本に紹介。現地の言葉と衣服を身につけ、民族を超えた「共生」を体現したが、40歳で早逝した。

▼新しい美の概念

 志賀直哉や武者小路実篤らと文芸雑誌『白樺』を創刊し、西洋美術を紹介していた柳宗悦(1889-1961)は、浅川兄弟との関わりで初めて朝鮮に興味を持つことになる。

 「(彫刻家を目指していた)伯教さんは『白樺』を読み、柳先生がロダンの彫刻を持っておられることを知り、ぜひお会いしたいと千葉県我孫子まで向かいます。その時のお土産が、李朝の染付秋草文面取壺でした。この壺を見て、柳先生は、隣国の朝鮮半島に美しい工芸品があることに気付いたのです。大正3(1914)年のことでした。」

 朝鮮の無名の職人が作った日常の工芸品に、西洋の芸術観とは異なる、生活に根差した「美」を発見した柳は、これをきっかけに「民衆的工藝」、略して「民藝」という概念を提唱する。陶芸家の河井寛次郎や濱田庄司とともに日本各地や朝鮮から民芸品を集め、1936年には東京駒場に日本民藝館を開館した。

 「柳先生は、私の調査では21回渡韓されています。1931年に民藝運動の啓蒙(けいもう)を目的として雑誌『工藝』を出版し、その69号(1936年)に柳先生、河井先生、濱田先生が共同執筆された紀行文『朝鮮の旅』が載っています。朝鮮半島を旅されたのは、民藝の調査のためでした。」

▼30年代の記録と響き合う

 藤本さんの渡韓の直接的な発端は、1963年に録音された河井寛次郎のインタビューテープだった。

 「染織家の岡村吉右衛門さんが、民藝を調査した人たちの言葉を録音して後世に残そうとされ、そのダビングを父に頼みにこられたのです。私はそのテープを何度も聞いて、夢中になりました。」

 こうして藤本さんは、柳宗悦らが1930年代に行った「朝鮮の旅」を追うように韓国を訪れた。

 「朝鮮時代の工芸品がどういう背景で、どういう人たちが作っていたのか。『朝鮮の旅』の残影のようなものが撮影できればと思っていました。しかし、紀行文から34年も過ぎた1970年です。韓国も近代化に向かっていたので、柳先生たちが見た風景はもうないだろうと思っていました。ところが、文章とほとんど変わらない風景が目の前に広がっていたのです。」

 「朝鮮の旅」の文章に自らの写真を重ね合わせたスライドショーを見た観客から「一緒に行ったのかと思った」と驚かれるほど、藤本さんの写真は当時の記録と響き合っていた。

 「本当にぎりぎりのところでした。柳先生たちが“こんな美しいものはどこにあろうか”と言われていたものが、壊される直前にまだ残っていたのです。

私の写真は、日本ではあまり評価されませんでしたが、(「工藝」の表紙を手掛けた染色家の)芹沢銈介先生から“そうではない”と励まされ、撮り続ける決意を固めました。」

 1970年代のセマウル運動によって、韓国の農村では近代化が急速に進んだ。藤本さんの写真にも、よく見るとわらぶきの屋根の集落に一軒だけ混じるスレート屋根といった過渡期の姿が残されている。当時は景観を壊す屋根だと残念に思っていたが、それこそが1970年の韓国の農村を物語る証しとなった。その価値から、のちに韓国国立民俗博物館に、撮影したネガを全て寄贈することになる。

▼生きた建築、通度寺の一本はしご

 「自分で芸術作品を撮るのも大事ですが、先生方の文章に合わせて写真を撮ることに生きがいを感じます。作詞作曲のように、一つの詩があって、そこに私が曲をつけているのです。」

 昔の日本もこのような美しい市が立った。人里遠い山の中から、大きな丸太のくり抜きの水がめやかまどを担いで出てきた人たち…水色やもえぎ色のチョゴリを着た女たち――「朝鮮の道」の生き生きとした描写は、藤本さんの写真によって鮮やかさを増していた。

 市日に集まる白衣の人々を実際に目にしたときは、旅館の2階から夢中でシャッターを切った。柳宗悦が朝鮮の白磁を見て「これだ」と感じたように、藤本さんもまた慶尚南道の古刹(こさつ)・通度寺(トンドサ)の板倉に架けられた一本のはしごに目を奪われた。

 「河井先生がインタビューテープで“生きた建築”、“欲しいくらい”と力説されていたものがまだ残っていたのです。(河井先生の描写のように)一本の丸太から手斧で削り出したようなはしごはありのままに曲がっていて見事でした。後年、粗大ごみとして捨てられたと聞いた時は、本当にガッカリしました。」

 だが、柳らが見た風景を追っていた藤本さんに転機が訪れる。

 「1972年、釜山でお葬式を撮影したときです。喪主の息子さんがワイシャツに革靴という現代的な格好をしていました。それでシャッターをためらっていると、当時お世話になっていた昔度輪先生(韓国美術評論家)から『どうしてシャッターを切らないのか。これも現実だ。こういう写真も撮れなくてはだめだ』と諭されました。セマウル運動によって私が求めていたような風景はなくなりましたが、それ以降、新しい視野で韓国を捉えるようになりました。」

▼ダンプカーで削り取られるように

 2000年代以降、エンタメからフード、ファッションまで、Kカルチャーがグローバルに発信され受容されるようになった一方、韓国の街は見違えるように変わった。こうした変化をどう感じているのか。

 「70年代のセマウル運動で、お葬式や祭り、宗教も簡素化され、文化が失われていきました。特にソウルは、ダンプカーで削り取られるようでした。ピマッコルのような文化的な道ももうありません。あっという間になくなってしまいました。」

 そこで藤本さんは、日本の在日コリアンの暮らしに密着し、在日文学の象徴・金時鐘の詩や『日本の中の朝鮮文化』を著した在日作家・金達寿の証言に自らの写真を重ねることも試みた。韓国に残る日本家屋をカメラに収めた『寡黙な空間 韓国に移住した日本人漁民と花井善吉院長』(2019)は土門拳賞を受賞した。

 「2年ほど前に済州島に行ったのですが、吹いている風は30年前も40年前も同じです。そういう場所に立つと、司馬遼太郎みたいな人なら、いろいろと湧いてくるものがあると思うんです。私も、何もない野原であれば、構想が生まれ、映像が湧いてくる。高霊(コリョン)近くの伽耶山に行った時は何もなく、それが逆に良かった。記念館などを建てられると写真が撮れないんですよ。」

▼歩キナン大道ヲ

 藤本さんにとって韓国文化とは。

 「私自身を育ててくれたものです。韓国を通じて、本来なら会えないような偉大な先生方に出会い、支えていただきました。(今の私があるのは)皆さんのおかげだと思っています。私には、(浅川巧の名前をもらうなど)生まれながらに“大道”が敷かれていました。20代の頃は言えなかったことが、年を取ってようやく言えました。」

 柳宗悦が晩年に残した「歩キナン大道ヲ」(「心偈」)の句。「坦々たる大道が、人生には用意されているのである。すべての都は、大道につながる。

だが人間は無明の故に、横道にそれ、細道に迷い…」。若い頃はいろいろ迷うものだが、柳の言葉を「人は悠々と大道を歩むべき」と解しつつ、自身の人生を振り返った。

 今年は日韓国交正常化60周年。柳らの旅から約90年、藤本さんの写真旅行から55年を数える。

 「柳先生は、光化門の取り壊し計画に対して『失われんとする一朝鮮建築のために』という文章を残し、32、33歳で政府を動かしました。私もマスコミの人間ですが、“60周年”という冠だけでなく、61周年、62周年も両国が協力し続けていくことが大事だと思っています。私はやれることは十分やったので、今後は撮りためた写真を整理し、作品集にまとめていきたいと思います。」

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