経営者と独立リーグ監督で奮闘する”松坂世代”大西宏明のいま(前編)

 1980年生まれの大西宏明は”松坂世代”のひとりとして、甲子園球児、プロ野球選手として活躍してきた。引退後は焼肉店の店主となり、昨年からは関西独立リーグ・堺シュライクスの監督を務めている。

新型コロナウイルス感染拡大による未曽有の災禍のなか、大西は野球指導者、経営者として奮闘している。

松坂世代のいま。PL出身・大西宏明が波乱万丈の野球人生を振り...の画像はこちら >>

2002年のドラフトで近鉄から7巡目で指名された大西宏明

 大西はいまや全国的に注目を集めている少年野球チーム「堺ビッグボーイズ」の出身だ。つまり、筒香嘉智(レイズ)や森友哉西武)の大先輩にあたる。

「尼崎(兵庫)生まれですが、小さい頃に堺(大阪)に引っ越しました。小学校から野球を始めて、中学1年(1993年)で堺ビッグボーイズに入団したのですが、理由はその地区で一番強かったからです。当時の監督は、現在代表の瀬野竜之介さんでした。
今は”勝利至上主義”を否定し、子どもたちの将来を考えた指導をされていますが、当時は”昭和の野球”でした(笑)。

 瀬野さんも大学を卒業されたばかりで若く、朝から晩まで野球漬け。家に帰ったら疲れきって、風呂で半分寝ているような感じでした。僕らの代は行けませんでしたが、全国大会が狙える強いチームで、同期は30人ほど入団しましたが、3年生まで残ったのは12、13人ぐらいでした」

 堺ビッグボーイズで中心選手として活躍した大西は、1996年に名門・PL学園に進む。

「全日本メンバーに選んでいただいて、注目されるようになったんです。瀬野監督のお父さんが堺ビッグボーイズの代表をされていて、PLに行くように勧めてくださったんです。

でも、高校野球にそれほど興味はなく、”天下のPL”ということも知りませんでした。でも、PLに行かなければ、今の僕はなかったですね。

 PLは本当に厳しかった。堺ビッグボーイズの比ではありませんでした。全寮制で、上下関係が厳しく、暴力の”ご指導”もありました。当時は堺ビッグボーイズからPLに進んだ先輩が少なく、そういう文化を知らなかったので、正直、驚きました」

 当時、高校球界屈指の強豪校だったPLでも、大西はチームの主力として活躍する。


 3年春(1998年)の甲子園では、準決勝で松坂大輔(現・西武)を擁する横浜(神奈川)に2対3と敗れたが、この試合で大西は2安打を放っている。

 そしてこの年の夏の甲子園で、PLは再び横浜と準々決勝で対決し、球史に残る死闘を演じる。「5番・センター」で出場した大西は、この日も松坂にタイミングが合っていた。2回に先制点につながる中前打、7回にも右前打を放っていた。

 試合は延長戦に入り、横浜が11回表に1点を勝ち越すが、その裏PLは平石洋介(現・ソフトバンクコーチ)がヒットで出塁。3番の本橋伸一郎が犠打で送るも、4番の古畑和彦は三振。
二死二塁となり、大西にこの日5回目の打席が回ってきた。そして大西は三遊間を破るヒットを放ち、平石が生還。この時、大西は三振に倒れた古畑に「打ってくるわ」と言って打席に立ったという。

「あの時のことは映像で何度も流れましたら、目に焼き付いています。僕としては『まだ試合を終わらせたくない』という気持ちだけで打席に立っていました。ただ、力だけで言えば横浜が7対2ぐらいで勝っていたと思います。

それほど力の差はありました。それがあれだけの試合になったのは、”PL学園”のユニフォームのおかげです。

 松坂は本当にすごい投手でした。球の速さ、コントロール、変化球とすべてがすごかった。同世代では、敦賀気比(福井)の東出輝裕(現・広島コーチ)や関大一高(大阪)の久保康友(元ロッテなど)とも対戦しましたが、松坂は次元が違った。それまでの価値観を覆すような投手でした」

 結局、試合は延長17回、PLは敗れた。
一方、この試合に勝った横浜は準決勝でも明徳義塾(高知)を破り決勝に進出。その決勝では京都成章相手に松坂がノーヒット・ノーランを達成し、史上5校目(当時)の春夏連覇を果たす。

 夏が終わった頃から”松坂世代”という言葉が世間に流布し、松坂を筆頭とする同世代の選手たちが注目されるようになる。大西もその世代の一員として近畿大学に進み、俊足・好打の外野手として活躍する。

「スラッガータイプではありませんでした。堺ビッグボーイズでもホームランはゼロでしたし、高校でも2年から試合に出ていたのに5本だけ。しかも金属バットで。僕自身はリードオフマンタイプだと思っていました。あとは外野守備。足と肩が売りでした」

 大西は、2002年のドラフトで近鉄から7巡目指名を受け入団。この年のドラフトの自由獲得枠(2006年を最後に廃止)では、村田修一(日大→横浜)、永川勝浩(亜細亜大→広島)、和田毅(早稲田大→ダイエー)、新垣渚(九州共立大→ダイエー)、後藤武敏(法政大→西武)、長田秀一郎(慶應大→西武)、木佐貫洋(亜細亜大→巨人)、久保裕也(東海大→巨人)、江草仁貴(専修大→阪神)といった9人もの”松坂世代”が指名された。

 指名順位こそ低かったが、大西はルーキーイヤーから一軍出場を果たし、2年目には103試合に出場。だが、その年(2004年)のオフ、球界再編により近鉄はオリックスと合併し、大西はオリックスの選手となった。

 翌2005年も103試合に出場するが、2007年オフに同世代の古木克明とのトレードで横浜(現・横浜DeNA)へ。移籍1年目の2008年はキャリアハイの105試合に出場し打率.270をマークするも、翌年から出場機会を減らし、2010年に戦力外となる。

「球界再編がなければ、近鉄でレギュラーになっていたかもしれません。でも、球団が変わってレギュラーにはなれなかった。それだけの選手だったということです。オリックスから横浜にトレードされた時はつらかったですが、それでも(試合に)使ってくれた。僕自身、パ・リーグセ・リーグも、関西のチームも関東のチームも経験できたことは収穫でした」

 戦力外となった大西はトライアウトを経て、ソフトバンクに育成選手として入団した。NPBではこれが最後のキャリアとなった。

「2011年はソフトバンクが三軍制を初めて敷いた年でした。三軍は、福岡から四国までバスで行って、独立リーグの四国アイランドリーグplusのチームと交流戦をしたり、球場とは言えないような地方のグラウンドで試合したりすることもありました。この年の新人には柳田悠岐がいたし、育成枠でも千賀滉大甲斐拓也、牧原大成らがいました。

 育成の選手は、右も左もわからないような印象でした。千賀はフィールディングも知らないし、ベースカバーもできなかったけど、球だけは速かった。甲斐は捕ってから投げるまでの速さはずば抜けていました。今まで何人もキャッチャーを見てきましたが、コイツはすごいと思いました。彼らを見て、ソフトバンクはこういう選手を育てるんだと思いました。9年間のプロ生活でしたが、こういう体験もさせてもらって、有意義でした」

 ソフトバンクを1年で戦力外となった大西は現役引退を決意。野球界を離れ、第二の人生を送ることになる。

(後編につづく)