根本陸夫外伝~証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第29回
証言者・黒田正宏(3)

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 広岡達朗が監督に就任し、西武は1982年、83年と連続日本一を達成した。相応の戦力が整備された背景には、広岡を招聘した実質GM、根本陸夫の存在があった。

その手腕はおもに新人補強とトレードに発揮されたなか、常勝軍団の基盤を固めるうえで不可欠なものとなるのが、ふたりの捕手の獲得だった。

 ひとりは81年ドラフト1位で入団した伊東勤、もうひとりは同年オフに南海(現・ソフトバンク)から移籍したベテランの黒田正宏。盤石の正捕手が不在のチームで黒田は主力となったが、広岡に要請されて若い伊東を育てる役割も担った。南海時代、大捕手の野村克也から受けた指導内容が大いに生かされた。

 結果、黒田自身の出番は減少し、伊東が攻守両面で成長を遂げた84年。正捕手が確立した一方で投打とも中心選手の故障、不振で精彩を欠き、連覇したチームは3位に下降した。

すると、参謀格だったバッテリーコーチの森昌彦(祇晶/元・巨人)が広岡と対立。のちに退団して首脳陣の再編を余儀なくされるのだが、黒田はシーズンの終わり間際に広岡に呼ばれている。

プロ野球はコーチ育成が重要。西武黄金期を築いた根本陸夫は選手...の画像はこちら >>

西武の新監督就任発表会見を行った(写真左から)根本陸夫、森昌彦、球団社長の戸田博之

 84年9月29日のことだ。西宮球場で行なわれる阪急(現・オリックス)とのシーズン最終戦、試合前。宿舎のホテルで面と向かうと、広岡が切り出した。

「来年からおまえ、兼任でバッテリーコーチやってくれんか」

「はっ⁉︎ じゃあ、考えます。

相談してきます」

「おまえが相談する人に、了解とって言っとるんだよ」

「え? ちょっと待ってください。誰ですか?」

「いや、おまえ、自分でわかるだろ。誰に相談するんだ」

「あっ、根本さんです」

「その人だ」

 根本が決めたトレードで加入した黒田が、根本の信奉者であることを広岡は把握していた。黒田は広岡からの打診を根本に報告。その場で「一軍のコーチは監督が決めるもんだ。しっかりやっとけ」と命じられたのだが、「でも兼任って難しいですよ」と嘆くと、「それを苦労してやっていくのがおまえやないかい」と返された。

ことの次第を黒田に聞く。

「実際、難しいんです、兼任コーチ。もう歳やのに、走るのも選手と同じようにやっていかなあかんから。100メートル30本とか、グラウンド20周してまた反対方向に20周とか。コーチやからやらんでええんか、と思ったら、広岡さんに『走っとけよー!』って言われて。それでスマートになったけどね(笑)」

 現実に兼任コーチはひとりでは無理があり、専任のバッテリーコーチとしてヤクルト、阪神で経験のある久代義明(元阪神ほか)が就任。

さらに作戦コーチに黒江透修(元巨人)、投手コーチに宮田征典(元巨人)、打撃コーチに長池徳士(元阪急)と主要スタッフが一新され、85年のシーズンを迎えた。

「僕は試合中にマウンドに行く役割やった。結局、試合に出る間がないから、優勝が決まりかけた時、根本さんと相談して任意引退にしたんです。もうひとりキャッチャーをベンチに入れておいたほうがいいでしょうということで......若手で仲田(秀司)、大久保(博元)がいましたから」

 85年の西武は打線の得点力が高くなかったなか、投手陣が充実して2年ぶりのリーグ優勝。東尾修を筆頭にベテラン勢が安定した一方、台湾から新加入の郭泰源が活躍し、工藤公康、渡辺久信という若手の台頭もあった。前年限りで野手では田淵幸一、山崎裕之が引退し、リーダー格の石毛宏典をはじめ生え抜き中心のチームになりつつあった。

「チームを引っ張っていたのは、野手では石毛ですよ。ベンチの前で円陣を組むと、必ず声を出してね。これは僕自身がコーチになった時の話ですけど、『打っても打たなくても、おまえはいつもベンチではにこやかにしとけ』って言わせてもらいました。

 ピッチャーは東尾。一生懸命、練習してました。その姿に工藤がついていって、工藤がいたから渡辺もついていったと思う。

それと、トレーニングコーチの指導がよかったから、毎日のように投げる中継ぎのピッチャーでも、調整して、ランニングを疎かにするんじゃなくて、よく走って鍛えていたから長持ちしたんですよ」

 チーム力も高まっての優勝だったが、日本シリーズでは阪神に2勝4敗で敗退。それから6日後の11月8日、広岡の監督辞任が唐突に発表された。表向きの理由は「健康上の問題」も、実際にはフロントとの確執が原因だと外部に知れ渡っていた。つまりは根本と広岡との確執であり、監督就任以来、広岡はトレードにも新人補強にもたびたび不満や疑問をぶつけていた。

 球団内部でぶつけるだけならまだよかったが、広岡はマスコミを利用して間接的に意見し、ある夕刊紙ではあからさまなフロント批判を展開。これが根本の目に留まり、広岡に問いただしたことから、急展開で辞任発表に至ったとされる。実質的には「解任」と言えるだろう。

 後任監督には、森が復帰して就任することになった。決定まで1カ月近く費やしたが、広岡の参謀役を務めた能力を根本は高く評価していた。参謀として有能な人材がトップに立った時、どんな変わり身があるのか、若干の不安はあった。現に西武グループ内からも「参謀として一流だが、森で勝てるのか」と危惧の声が出た。すると、監督就任発表時に根本は言った。

「西武の最初の3年間は土台づくり。次の4年間は戦いの時だった。来シーズンからは、勝ちながらチームを動かしていく時期に入る」

「チームを動かす」とは、選手を育て、組織を整備して、常勝軍団へ飛躍していくという意味。西武の内情を熟知し、V9巨人の正捕手時代から守りの司令塔だった森に、根本は期待した。コーチ陣は投手担当に八木沢荘六が復帰し、打撃担当に土井正博が二軍から昇格。そしてバッテリー担当に黒田が就任した。ただ、黒田には以前から希望があった。

「じつは僕、根本さんにお願していたんです。『急に兼任コーチになったんやから、来年から監督が代わるんやったら、二軍のコーチか、アメリカ留学の選手を引率するコーチにしてください』って。そしたら、『ダメ! おまえはずっと一軍におれ。そんな、二軍でせんでええから、今のままおれ。勉強せえ!』って」

 選手を育てること以上に、コーチを育てることに厳しかったといわれる根本。かねてから二軍コーチの重要性を説いていただけに、黒田の希望をすぐ受け入れてもおかしくなかったはず。それでも、兼任からそのまま一軍コーチ就任を命じたのは、伊東を育てた黒田の指導能力に一目置いていた証なのか。

「それは自分ではわからないですけど、コーチになってまず、『ラグビーの練習も見てこいよ』と言われました。『いろんなスポーツの練習を見るのも仕事のひとつの仕事にしとけ。相撲でもいいんだから』と。ほかの競技がどうしているか、よく見て、よく考えろ、ということです」

 コーチとして、野球以外の世界を見て勉強する。選手を指導する立場になると、視野を広げることがいかに大事か教えられた。専任コーチとしては初めての参加となる86年2月の春季キャンプでは根本も宿舎に泊まっていて、黒田は毎晩、部屋に呼ばれたという。

「僕のために、段ボールいっぱいに入った資料を用意してくれていたんです。メジャーリーガーのフォームの写真とか、いろんな記事をコピーしたものとか。『これ見て、勉強せえ』と。ふたりでいろいろ話もさせてもらって、それは実際、役に立ちました。夜のミーティングで必勝法、必敗法を勉強したあと、必ずでしたから、終わるまで酒飲めないです(笑)」

 まさに、根本は自らの直接指導によって、コーチを育てていた。指導されるほうの黒田にとっては、直接であるがゆえに大変な面もあったようだ。

「根本さんの話って、いろいろと難しい言葉が出てくるんです。いろんな世界の人と話しているから、知識がすごいんですよね。だからしょっちゅう、『オレの言うことがわからんのか!』ってなって(笑)。そしたらそのうち、『何でも書いとけ。新聞見てもええ、何でもええ、いいと思ったことはメモしときなさい』って教わりました」

 旧知の後輩である黒田だからなのか。仮にそうだったとしても、そこまでの頭の回り方と気遣いは、面倒見がいいというレベルを超えている。

「それは僕もそう思います。で、シーズン中も続くんです。僕がコーチして、西武球場での試合に勝つでしょ。たとえば、渡辺久信が完封する。そしたらね、根本さんの家と僕の家は近くだから、球場から車に乗って、だいたい家に着く時間をわかっている。だから、帰る
時間を見計らって、電話がかかってくるんです」

 埼玉・所沢市の小手指にある根本の自宅から、すぐ近くの所に黒田は住んでいた。「車を置いたらすぐ家に来い」と命じられ、飛んでいく。「今日はよかったな、勝って」と根本に言われ、「はい。完封しましたから」と答えると、「でもな、あのフォーム、悪いで」と返された。

「それで一緒に試合のビデオ見るんですよ。『ここがこっちに傾いているから、肩に負担がかかるフォームになってる』と指摘されて。『このままだと壊す。こういうふうに指導せなあかんで』と言われる。そういった話もしてもらってよかったですね」

 話が終わると食事を勧められた。「でも家でつくっていますよ」と遠慮すると、「じゃあ、嫁におかず持ってこさせ」と無茶を言われたが、夫人が用意するすき焼きを断るわけにもいかなった。すき焼きが寿司になる日もあれば、ビールまで出してもらう日もあったが、常に野球の話が尽きなかった。しかし、飲食をともにする親密な関係は根本家に限られた。

「コーチとして『あまり群がるな』と根本さんに言われました。『選手を食事に連れていくな』と言われたし、連れていったら即、根本さんの耳に入るんです。『おまえ、この前、あの店に行っとったやろ?』『え、何で知ってますの?』『おまえがな、どこ行ってるか、すぐわかんねん』って言われる。おお、怖い人やな、と思って(笑)」

 行きつけの店を根本が把握しているのは、黒田に限らず、チーム全員といってもよかった。また、食事のみならず、オフのゴルフもすぐ耳に入れていたから、黒田は驚かされた。根本が知らないはずの知人のコンペにもかかわらず、「またおまえ、選手と一緒にゴルフやったらしいやないか」と言われたのだ。思わず言い訳をすると、「そんなことやるな!」と一蹴された。

つづく

(=敬称略)