連載「斎藤佑樹野球の旅~ハンカチ王子の告白」第21回

 引き分け再試合の末に夏の甲子園で優勝した早稲田実業のエースは"ハンカチ王子"として一躍、日本中にその名を知られた。斎藤佑樹は高校からプロへの道を選ばず、早稲田大学への進学を決める。

彼が甲子園から神宮へ投げる舞台を移した途端、世の中の注目は東京六大学野球に集まった。

斎藤佑樹、波乱だった大学野球のスタート。沖縄のキャンプでは監...の画像はこちら >>

斎藤佑樹(写真右)のピッチングを見つめる早稲田大・應武篤良監督

【大学生活がスタート】

 大学に入ってすぐ、僕は東伏見の安部寮へ入れることになりました。寮に入れるのは30人くらいで、野球部員がみんな入れるわけではありません。1年生で入ったのは何人だったかな......福井(優也/済美高校で春の選抜を制覇した甲子園優勝投手、一浪して早大へ入学したため斎藤と同学年ながら歳は一つ上)は入寮していましたね。

 その時、4年生の学生コーチに国府(潤士)さんという先輩がいらしたのですが、僕は国府さんに助けられました。すごく怖い雰囲気なのにとっても優しくて......国府さんは僕と同じ教育学部の先輩です。だからどんな授業をとったらいいかを教えてくれて、よく食事にも連れていっていただきました。

 早稲田では一つ上の先輩はすぐ下の学年の後輩を厳しく指導するんですが、4年生ともなると1年生に口うるさいことは言いません。だからといって1年生が4年生に話しかけるなんてこともあり得ないんですが、国府さんは僕をすごく気遣ってくれていました。それが大学に入ってすぐの僕をすごくラクにしてくれましたね。

 キャンパスでもたまに騒がれることはありましたが、わりと普通に通うことができました。大学には内部進学をした高校時代の同級生がたくさんいて、そういう友だちが誰かしら一緒にいてくれたことも大きかったと思います。

 授業も国府さんのアドバイスで、この曜日は午前に、この曜日は午後に集中させるとかの工夫をして、練習と授業を両立させていました。

食事はほとんど寮で済ませていて早稲田界隈に馴染みのお店とかはなかったので、卒業生なら誰でも知っている定食屋とか、そういう話には今も入れないんですけどね(笑)。

 ただ、野球のほうはうまくいっていませんでした。高校3年の秋の国体のあと、大学の練習に参加する頃までにいい時の感覚がつかめていなかったんです。

 入学式前の3月、沖縄の浦添で野球部のキャンプがあったんですが、その時に應武(篤良)監督が僕のピッチングを見て、「斎藤、様子がおかしいぞ。オレが想像している斎藤はこんなピッチングじゃない」と言うんです。僕も、何が狂っていたのかはわからなかったんですが、とにかく投げていておかしいと感じていました。

夏の甲子園の時のような感覚でピッチングしたかったのに、思うようにできてない。リズム感がまったく違うんです。

 そこで應武監督が「発想を変えてみたらどうだ」とアドバイスしてくれたこともあって、フォームをガラッと変えてみようと思い立ちました。應武監督と一緒に、浦添の室内練習場でネットスローやシャドウ・ピッチングをひたすら繰り返しました。

【應武監督と二人三脚で特訓】

 思えば僕のなかには松坂(大輔)さんのイメージがあって、夏の甲子園ではほぼストレートとスライダーだけだった球種を増やしたかったんです。だから、夏の甲子園が終わってすぐの高校日本代表に選ばれてアメリカへ行った時、そこの硬いマウンドで投げるとやたらと落ちるようになったフォークを投げまくった。それは新しい自分を見つけたかったからだし、ツーシーム、カーブ、チェンジアップなんかも自由自在に操りたかったんです。

 でもフォークを投げすぎたらスライダーの感覚を失ってしまって、やがてはストレートの感覚までおかしくなってしまったまま、春の浦添キャンプを迎えていました。それがリズム感を失った原因だったのかもしれません。

 まずはストレートの感覚をよくすることを最優先に、腕の軌道を見直しました。感覚を戻そうと知らず知らず力が入っていたせいか、腕が身体の後ろ側に入ってしまっていたんです。そこを應武監督に指摘されて、まずはその修正を図りました。

 右腕を身体の前に通して、そのまま回す。

後ろ側に入ると、投げようとするときに身体が開いて腕が遅れて出てきてしまうんです。だから右腕を身体より前で回して畳んで、右腕を投げるタイミングに?間に合わせるようにと應武監督に指導を受けました。

 監督はキャッチャー出身でしたし、その視点には何度も頷かされましたね。ピッチャーの腕の軌道にはとくに厳しくて、大石(達也)にもよく言っていました。「おい、また腕が入りすぎているぞ」って......そういう腕の使い方をするようになるとピッチャーは調子を崩すし、やがて壊れるということを監督はいつも話していました。

 浦添で監督と二人三脚で特訓したおかげで、感覚は徐々に戻ってきました。

春のリーグ戦の前にオープン戦があったんですが、その時に調子がよくて結果を出していたのは福井のほうだったのかな。僕は全然、ダメでした(実際はかずさマジック、JFE東日本などの社会人を相手にリリーフで登板して無失点、大学相手のオープン戦には先発、中央大学を相手に5回を、東海大学との試合では6回を投げていずれも無失点に抑えるなど、結果を残している)。

 それでも監督はキャンプの時から「リーグ戦の開幕は斎藤で行く」みたいな雰囲気は出していました。半分はリップサービスかなと思っていましたが、でも半分は、あるかもしれないなとも思っていました。

 そうしたら開幕直前、監督室に呼ばれました。そこで「開幕戦、行くぞ」と言われて、ホントに行くんだと思いましたね。

 当時のエースは3年生の須田幸太(元横浜DeNA)さんで、2年生に松下健太(元西武)さん、大前佑輔さんがいました。たぶん1年生の僕が開幕戦に先発すれば、先輩方はいい気持ちはしなかったと思います。でも松下さんが上の先輩たちとの空気を和らげてくれましたし、須田さんは淡々と自分の練習に打ち込んでいて、僕はやりにくさを感じたことはありませんでした。

福井優也へのライバル心】

 あとになって気づきましたが、應武さんはチームのなかでのケミストリー(化学反応)をどうやって起こすかということをすごく考える人でした。たぶん、開幕前のオープン戦では僕が開幕投手に相応しい圧倒的な結果を残していたわけではなかったと思います。でも監督は、"斎藤佑樹"が開幕投手を務めることがチームに対してポジティブな影響をもたらすのではないかと考えていたんだと思います。その結果、僕が選ばれたんでしょうね。

 ただ僕は、周りからはそう見えなかったかもしれませんが、必死にやっていました。大学に入るにあたって早稲田の野球部には厳しい印象はありましたが、入ってみたら本当にすごく厳しかったんです。実際、力が伴っていたら1年が起用されるのは当たり前、みたいな空気はまったくありません。

 1年生は1年生だし、上下関係には厳しいし、場をわきまえなくてはというピリッとした雰囲気は常にありました。グラウンド整備から雑用まで、やらなければならないことはたくさんありましたし、練習する時も先輩方がどう思うかを意識していました。だから、「開幕はオレだ」みたいな意識は、当時の僕にはありませんでした。

 つい最近、1年春のオープン戦では僕より福井のほうが結果を出していたと、福井自身が僕に言っていましたが、じつはその記憶もありません(笑)。僕は誰かに負けたくないとか、開幕投手を狙うとか、そういうことをあまり考えず、目の前の練習や練習試合を淡々とこなしていたんじゃないかと思います。

 あの時のピッチングがよかったという記憶はないし、オープン戦で大学野球のレベルを探ろうという気持ちもなかった。本当に1試合、1イニング、バッター1人という感じで、あっという間に開幕を迎えた感覚でしたね。

 とはいえ、同じ1年の福井に対しての対抗意識はありました。ライバル心のようなものを持っていて、あの頃、キャッチボールの相手はいつも福井でした。もちろん当時、仲がよかったからキャッチボールをする、なんて空気はどこにもありません。覚えているのは「開幕投手はオレだ」ではなく、「福井に土曜日をとられてたまるか」という気持ちです。

 高校で日本一になって、4年の時には絶対に早稲田のエースとして大学日本一になると思っていましたから、同期には負けていたくないという思いが強かった。福井に土曜日をとられるわけにはいかないと、そんな気持ちでキャッチボールしていたのを覚えています。だから、「どうだ」というボールを投げたくて、かなり力が入っていたはずです。それは福井も感じていたんじゃないですか(笑)。

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 土曜日----東京六大学ではリーグ戦の各カード、初戦は土曜日に開催される。土曜に第1戦、日曜が第2戦。その2試合でどちらかが2勝できずに勝ち点をとれなかった場合、月曜に第3戦が行なわれる。つまり"土曜日"に投げることは東京六大学のエースの証なのだ。そして1年春の開幕戦、東大との第1戦に、斎藤が先発することになった。

(次回へ続く)